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進歩 ー人類の未来が明るい10の理由 ー

年が明けて2020年。
2020年という語感に近未来感を感じてしまうのは、80年代に接してきたいくつかのSF作品の影響だろうか。
例えば「ブレードランナー」で描かれていた2020年の世界では、環境破壊が進んだ結果、人類の多くは他の惑星へ移住。酸性雨が降りしきる地球では人造人間レプリカントたちが反乱を起こしていた。
例えば「AKIRA」では、第三次世界大戦の核爆弾で荒廃した東京が舞台になっていた。
いずれにしても昔のSF作品が描く近未来像ってネガティブなんですよね。
環境破壊、世界最終戦争、機械化社会の反乱、、、「ターミネーター」も確か2020年代の世界で、核戦争後に機械が人間を制圧するような話だったし。

実際の2020年はそれほどまでに深刻ではないにしろ、未来を見据えたときに、素直に薔薇色の未来像が描けるかというとそうではない。
アメリカと中国のパワーゲーム。アメリカとイランの緊張関係やペルシャ湾近辺の不安定さは日本の安全保障に大きな影響がある。
或いは人権弾圧やテロリズムや増殖する偏狭な国粋主義者たち。
プラスチックごみ問題をはじめとする環境問題。地球温暖化と異常気象。
人口爆発、食料危機、格差社会、貧困問題、超高齢化社会、超監視社会。
東南海地震、富士山噴火、原発問題だって結局解決しないまま先延ばしだし、新型インフルエンザのパンデミックの恐怖も消えたわけではない。オゾンホールはその後どうなった?マイ箸を使うくらいで森林破壊が止まったわけでもない。
未来に対する不安定要因は数えきれないほどあって、そういうひとつひとつのシリアスなニュースに接していると、とても明るい未来像など描くことができないのだ。

それでは、世界は本当に破滅寸前なんだろうか。
世界は日毎に悪くなっていってるのだろうか?
昔の方が人間は幸福で、人類は進歩しないほうがよかったのだろうか?



福島の原発事故のときに、「原発なんて即刻廃止、電気がなくなっても、明治時代の暮らしに戻ればいいだけのこと」と主張する人とちょっと論争になったことがあって。
僕とて原子力発電に諸手を挙げて賛成というわけではない。けど、電気がなくなれば、少なからず現代では救えている命が救えなくなる、労働はとてつもなく過酷になる。原子力という発電方法には人類が負いきれないリスクがあるのでこれに頼り続けるのはよろしくないけれど、電気を悪者にしてはいけない、と主張したのですが、その方はまったく聞き入れていただけませんでした。
現代を否定的に捉える裏返しで、過去の時代がユートピアに見える、ということはあり得ることだとは思う。
でも、本当に明治時代の暮らしは今よりよかったのか?
労働、衛生、社会的自由度、差別や格差。
僕にはどう考えても、現代より暮らし易いとは思えなかった。



そのときの僕の疑問を解消してくれたのが、お正月休みに読んでいたこの本でした。

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進歩 ー人類の未来が明るい10の理由 ー / ヨハン・ノルベリ

著者のヨハン・ノルベリさんはスウェーデンの歴史学者。
いろいろな視点からのエピソードを引用し、現代と過去をデータで比較して根拠を示している。

(食料)
・1600~1800年代、天候不順による不作はしばしば飢餓につながった。
機械や冷蔵保存、灌漑、化学肥料なしでは、作物の不作は常に起こりうる脅威で、通信や輸送がない世界では不作は飢餓に直結した。
・1800年代半ばの西欧での平均日量摂取カロリーは2000~2500kcalで、これは現代のアフリカ貧困地域以下の摂取量。
(衛生)
・コレラやチフス、ペストなど、安全な水へのアクセスがない時代、疫病の流行で人口が激減することが多々あった。
・1882年のニューヨークの住宅の下水道普及は約2%。
・殺菌された上水へアクセスできる世界人口は、1980年に52%、2015年には91%。
(期待寿命)
・食料事情と衛生状況の改善の結果、幼児や児童の死亡率が大きく低下した。
・医療と栄養の知識の進歩により、1800年代の期待寿命(生まれた子が平均何年生きられるか)は30才。1970年に50才、2010年には70才に伸びた。
(貧困)
・1800年代の最富裕国のアメリカ、イギリス、フランスでさえ、40~50%の人は現代でいう貧困状態で暮らしていた。
・1日1ドル未満で暮らす貧困世帯は、1850年に80%、2010年には10%。
(暴力)
・戦争と暴力はかつては人類の常態だった。競争し征服した相手を虐殺することは理にかなっていた。
・拷問や残酷な刑罰による見せしめ、生け贄もどこの集団でも行われていた。
・16世紀~17世紀にかけて、西欧列強国は75~100%の年に戦争を行っていた。
・第二次世界大戦以降、民主主義国同士の交戦は激減した。
・自由主義と経済相互依存の世界では、戦争は損失の方が大きい。
(環境)
・1960~70年代には増加の一方だった環境汚染は、技術革新により劇的に減っている。
・六大大気汚染物質の総排出量は、1980年~2014年で2/3に減少、酸性夏臨界負荷量を上回る地域は1980年の43%から2010年には7%に減少。
・貧困であれば目先の経済利益最優先になるが、世界中が豊かになることで環境配慮の技術導入が促進される。
(識字率)
・1820年の世界人口比での識字人口率は12%、2015年には86%。若年層だけなら95%近く。

自由や平等に関しても、奴隷制度や人種差別制度は撤廃され、男女ともに参政権があるのは当たり前になった。
まだまだ地域差はあるものの、個人が自由に発言して処罰されることも民主主義国ではほとんどなくなった。
性別、生まれ、職業、特定の病気で差別されることも、まだまだ因習として残っているとはいえ、いけないことである認識はこの20年近くでずいぶんと高まったという実感があります。

総じて、文明発祥の4000年前から西暦1800年くらいの期間にはなかった変革がこの200年の間に起き、それはトータルでは明らかに多くの人生を豊かなものにしていた。
この期間に起きた変革を延長していけるならば、人類は今起きている問題に対しても何らかの解決策を見出だすはずで、人類の未来は破滅的ではない、というのがこの本の論旨。

では、人類史上最大級の豊かさを享受しているにもかかわらず、なぜ人類は未来を悲観的に捉えるのか。
著者によれば、それは情報量の問題ということらしい。
前提として、生き物は本能的に危機情報の収集には敏感であることがある。
1000分の999の安全情報よりも1000分の1の危機情報を見落とすことが生命の維持に関わる問題になる。
その本能のせいか、平穏なニュースは誰も喜ばず、事故や悲惨な事件の報道の方がウケるので、メディアもそういう情報が頻繁に流すことになる。
そういう情報に囲まれると、人間は世界を悲観的に捉えてしまうということなのだろう。


まぁ、数字なんていうのはどの角度からどういうふうに切り取ってくるかなので、この本に書いてあることをそのまま鵜呑みにするわけではない。
物質的に恵まれたことと心の問題がどうリンクしているかにも言及がない。
ただ、人類はずっと、置かれた環境を少しでも改善しようとする生き物なのだということにはもっと信頼を置いていいのかも知れない、とこの本を読んで思ったのです。

新年の始まりだしね。
悲観的になるよりも、明るい未来をイメージしたいですね。




Can't Stop Loving You

新年おめでとうございます。
旧年中はたいへんお世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。

新しい年の始まりには、これまでの来しかたを振り返り、新しい年の抱負などを立てたりしつつ、心持ちを新たにしたいもの。

ではあるのですが。

三が日、これといってお正月らしいことも特にせず、だらだらと過ごしております。
初日の出も拝まず、初詣にも行かず、書き初めもせず、年賀状も書かず。
まぁ、毎年そんなもんです。
年が改まったからって何かがいきなり変わるわけでもない。
今さら身の程知らずの大きな野望を企てるでもなし、これまでにやらかしたミスもチャラになるわけでもなし。
これまで経験してきたことや得てきたものでやっていくしかないわけで。
新年だからって殊更新たな抱負を立てるより、普通に何気なく過ぎていく暮らしの中で感じられるシアワセを大切にしたいな。
だんだんと年を重ねてきていいなぁ、と思うのは、いい意味でこだわりがなくなってきたこと。
ああでなくっちゃ、こうでなくっちゃという縛りがどんどんほどけて、あるがままを受け入れるのが上手になってきた。
嫌いなものが少なくなって、小さなことにシアワセを感じることができるようになってきた。
そういうものを否定することで乗り越えてきたこともたくさんあるんだけど、今は受け入れた上でそれを乗り越えていきたいと思うのですよね。
なんて書くと抱負くさくなっちゃうからやめておこう(笑)。


お正月明け、最初の音楽。
明るく元気で、どこか新しい始まりに似合う音を。


Can't Stop Loving You / Van Halen

ハードロックやへヴィーメタルはほとんど聴かないけれど、ヴァン・ヘイレンは別格に好きで、特にサミー・ヘイガー在籍時のちゃんと真面目でかつポップな音は好き。
これ、95年だったっけ、ヒップホップっぽいのとオルタナっぽいのばっかりのヒットチャートの中で、80年代産業ロックっぽいテイストのわかりやすいポップさと明るさとパワフルさはすごいと素直に思った記憶があります。
「レイ、あんたの言ったとおりだったよ。愛することは止められない。」
っていうラストのフレーズもかっこいい。



ところで、ふと浮かんだ素朴な疑問。
抱負、ってなんで「負ける」なんていうマイナスっぽい漢字なんだろ。

調べてみました。

「負」は「負ける」じゃなくって
「負う」という意味なんですね。
心に抱き、負うもの。
なるほど、納得。



今年もこんな感じでうだうだ書いていくと思います。
おつきあいのほど、よろしくお願いします。




すべてはAlright(Ya,Baby)

夢を見るのは悪いことじゃない
コトを焦りすぎちゃだめさ
ちょっとだけ時の流れが
きみを焦らしてるだけさ



すべてはAlright / RCサクセション


さて、いよいよ今年も終わる。
平成31年/令和元年だったんですね。
ずっと前の話のような気がするな(笑)。

今年はどんな一年だったかと一言で言うと、、、
よく働いた!
少なくともこの10年で一番働いたね。

ずっと、うぬぼれて踊ってた。
組織の方針よりも自分が思ったこと。
組織のヒエラルキーよりも自分が感じたこと。
それは今も心構えとしてはそんなに変わらないんだけど。
組織からの期待と自分がやるべき思いが奇跡的に一致することがあったりもするもので、ずっとそうであるべきだろうと思っていた方向へこの1、2年でぐっと組織が寄ってきた、みたいな感じかな。

頭ごなしに笑われても
うぬぼれて踊ってりゃEのさ
突然の贈り物を
受け取るときがきっと来るさ


僕らの世代はまだまだ体育会系的腕力と瞬間に数字を引き上げる力で仕事してきた人間の方が多いんだけど、今の若い子達にはそーゆーのまるで通じない中で、非体育会系・本質草食系の自分の考え方の方が成功への正しいルート、みたいになってきてる感があります。
消費者本位、労働者目線、低成長堅実路線。時代の転換期。
いい風が吹きはじめている。
任される範囲が広く、責任が重くなる分、仕事は増える。量も増えるし質もよりレベルアップが求められる。
でもそれは信頼の証でもあるし、無理して自分をねじ曲げてやるんじゃないから、もちろん肉体的な疲労はあるにせよ精神的にはそこまで疲れないのです。
むしろやるべきことがたくさんあってワクワクするくらい。

そういう感じで迎える年末。
しんどいなりに充実したよい一年だった、とそう思えるのは良いことだ。

気分を出してその気になって
コトに立ち向かうしかないぜ
だいじょうぶさ うまくやるさ
すべては始まったばかりさ


まだまだこれから。
もうひとがんばりしなくちゃいけない。
でもだいじょうぶ。
それなりのキャリアは積んできた。
うまくやれるはずだ。


とまぁ、仕事の話しかしてませんが、家庭でも私生活でも、それなりに穏やかに満足に過ごせた一年でした。
満足度の高さは、欲求のハードルがどんどん低くなっている故でもあるのだけれど。
一度に多くを望まない。身の丈以上の高みは目指さない。人並み以上に楽しめることが1つ2つあれば、あとの8つ9つはどうでもいい。
そういうスタンスの方が幸せ度は上がるよね。

たくさんの方の、俺がんばってるよ、私はここにいるよ、おまえもがんばれよ、そういう報告に励まされ支えられ今の自分があると感じています。
皆さん、ありがとうございます。

来年も、半径数メートルや、自分の身近な人だけでも、少しでもシアワセを感じられる一年であればいいのにな、と思います。
まぁ、いろいろあるけど、すべてはAlright。
起きたことは全部、悪いことじゃない。
そんな感じで焦らず慌てず、ぼちぼちやれるといいですね。






仕事納まらず

仕事柄、年末は大晦日までみっちり仕事なのです。
自分の職種は後方部門なので基本的にお取引先の皆様はほぼ金曜日で仕事納め。
年末のご挨拶にぞろぞろとやってくるのを「まだまだ仕事なんでよいお年をなんてピンと来ませんわー。」などと言わなくてもいい余計な一言を添えて見送る。

最年末の仕事はほとんどが現場のヘルプだ。
配送だったり店舗だったりのお手伝い。
現場があって本部があるわけだから、繁忙期にヘルプに行くことには何の異論もない。自分が現場にいたときはやっぱりヘルプをアテにしてたし、来てもらう以上ちゃんと役にたってほしい。
それを立場が変わったらいきなり、めんどくさいだのこっちも忙しいんだぜとか言うようにはなりたくないとは思っています。いや、実際はめんどうなんだが(笑)、めんどうなものほど、ちゃんとテンション上げとかなくっちゃ臨めない。

先週はお店の応援でレジ打ち。
レジの仕事は息つく間もなく忙しいんだけど、わりと好きなのです。
なにしろ、次々とお客さんの応対をしているうちにあっという間に時間が過ぎること。
他の部署に応援に行って一番辛いのは、忙しいんだろうけど何をやっていいのかわからないとき。店からしたら「忙しいんやからいちいち指示してられへんし、何か見つけて要領よくやってくれや。」ってことなんだろうけど、勝手のわからないアウェイな環境でそうそううまくは動けない。結局高校生のバイトみたいな仕事を黙々とこなして、役に立ったんだかよくわからない状態でとぼとぼ帰るのはなんとも虚しいのです。
その点レジは、役割がはっきりしていていい。ちゃんとお手伝いして自分の役割を果たした感がはっきりしているのは、とても気分がいいものだ。

もうひとつレジが気に入っている理由は、お客さんの買い物動向が垣間見えること。そこからお客さんの暮らしが想像できること。
冬至の日にかぼちゃとゆずを買って帰る奥さん。
手作りケーキやデコレーションを買って帰る母娘。
大量のビールにふぐやかき、牛肉、白菜、春菊・・・親戚やなんかが集まって鍋パーティーでもするんだな。
レジを通しながら、そういう人々の暮らしに思いを寄せると、少し心が暖かくなる。
それぞれの人々にささやかな暮らしがあって、いろんな思いがあって、めんどくさいことや嫌な気分になることもあるけれどトータルとして世の中はいいもので、悪い人なんて一人もいない、と思えるのだ。

本当は世の中は、たくさんの愛で溢れている。
ただ、それは見つけようとしないと見つからない、探しにいかないと見つけられない。
でも、四つ葉のクローバーみたいに、ちょっと探せばきっとすぐに見つかる。

***

Cats are crying
gates are slamming
the wind is howling
'round the house tonight
I'm as lonely as a boat out on the sea
when the night is black and the tide is high.
Oh, on nights like these
I feel like falling to my knees
I feel like calling "Heaven please"
find my love
find my love

猫が鳴いてる
扉がガタガタ音をたてる
家の周り、風が吠えるように吹き荒れる
今夜
海の真ん中の船みたいにひとりぼっちで
夜は暗く、波は高い
こんな夜はひざまづいて
お祈りしたくなる
「あぁ、天国よ、どうか、
わたしの愛を見つけて」

(Find My Love / Fairgroung Attraction)



フェアグラウンド・アトラクションのファーストアルバムも、冬になると聴きたくなるレコードのひとつ。
アコースティック・ギターやウッド・ベースのやわらかで、道端に咲いた名もない花のように可憐なサウンド。トラディショナルな雰囲気とどこかジャズっぽさも交えたリラックスした演奏。

なぜだか今年の年末は、年末感が薄い。
節目として少し振り返っておこうという気持ちになかなかなれないのは、がんばりすぎなのかもしれない。
まぁ、いいや。
年が改まったところでやることは変わらない。
フェアグラウンド・アトラクションの音楽みたいに、ゆるくやわらかに、リラックスしてやっていくのが一番いい。
誰かの役に立ったり、誰かにお世話かけたりしながら、時折、四つ葉のクローバーを探すみたいに、世の中にたくさん溢れている愛を探したりして。

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Fairground Attraction / Fairground Attraction






音楽歳時記シーズン3「冬至」

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The Gift / Midge Ure

ミッジ・ユーロの“If I Was”は1985年にUKチャートでNo.1になったヒット曲。
当時好んで聴くのはギターがぎゃんぎゃん鳴っているハードなロックやパンク系の攻撃的な音一辺倒だったから、ミッジ・ユーロや彼が在籍していたウルトラヴォックスにはまるで興味もなかったし、彼が曲を書いた“Do They Know It's Christmas”みたいな、みんながんばりましょう的チャリティーなんて中指立ててfxxk you的に大嫌いだったんだけど(笑)、この曲だけはけっこう大好きだったんだよな、って、冬に似合うレコードを考えているときに突然30年ぶりくらいに思い出して。

スカスカな打ち込みのリズムと大仰で安っぽいシンセ、ただただ淡々とリズムを刻み続けるギターとベース。
でもそのシンプルさがすっごく心地よかった。
安っぽいけど温かみがあるんですよね。
冬の夜、きらびやかなクリスマスのイルミネーションや賑やかな酔っぱらいたちを横目に通りすぎながら、心の底には個人的に大切な思いをひっそりと抱いているような、そんなささやかだけどとてもかけがえのない温もりを感じたのです。
大騒ぎも悪くはないけど、こういう感じのほうが好きだな、と。



“If I Was”はこんな歌。

If I was a better man
Would fellow men take me to their hearts
僕がよりよい男だったら
仲間たちは心を開いてくれるだろうか

If I was a stronger man
Carrying the weight of popular demand
もし僕がより強い男だったら
たくさんの人に影響を与える人気者になれるだろうか

もし僕が賢い男だったら、
もし僕が優しい男だったら、
もし僕が兵士なら、
もし僕が絵描きなら、
もし僕が詩人なら、
もし僕が指導者なら、、、

簡単にいえば弱っちい男の弱々ソング。
「もし○○だったら」をいくつもいくつも夢想する歌。
大人になってしまった僕がもしもそんなふうに夢想ばっかりしている気弱な青年に出会ったとしたらきっとこう言うだろうと思う。
「そんなふうに夢想ばっかりしてたって何にも変わらない。それより何でもいいからやれることをやれよ。」
って。
でも。
それは大人になったから言えること。
それはひょっとしたらこういう夢想の中にある、「ある種の無防備な柔らかさ」を失ってしまったということなのかもしれない、と気づいて少しがっかりしてしまうのだ。

ある種の無防備な柔らかさ。
それを守りたい。守ってあげたい。
この歌のブリッジの展開のところに、そういうメッセージに聞こえる場所がある。

Come here my baby
Oh they can't touch you now
I'll keep you safe and warm
I'll never leave you at all

Come here my baby
Oh they won't touch you
Dishing up love for a hungry world
Tell me would that appease you
I want to please you again

あなたをあいつらに触れさせはしない。

世界は邪悪なもので溢れている。
邪悪な、というか、ピュアなものをピュアなままにしておくことを許さないような圧力のようなものが確かに存在する。
放っておけば、「ある種の柔らかさ」は無防備であるが故に、汚され、引き裂かれ、踏みつけられてしまう。
そんな力からあなたを守りたい。
そういう思いこそが愛なんだと思うとき、夢想だらけのこの歌が、強く、深く、温かく聴こえてきたのです。


12月22日、冬至。
例年より暖かいせいか、それとも忙しすぎるのか?
もうすぐクリスマス、あと一週間と少しで今年が終わる、という感じがどうもピンと来ない。
クリスマスの夜もきっと普通に仕事してそうだ。
まぁ、それもいいだろう。
クリスマスのチキンやケーキもいいけれど、冬至のかぼちゃや柚子の方がなんとなく心がほかほか温まる気がする。
短くなっていく一方だった日の光があたる時間がこの日を境に反転する、冬至は明るい兆しの始まりを象徴する日。
よりよい男でも強い男でもなくていい。
かけがえのない身近な人たちの「ある種の無防備な柔らかさ」が、邪悪な心に不用意に傷つけられないことを願いたいと思う。






カーリングシトーンズ

僕が通っていた大学は京都の小さな大学で、バンド演ったり演劇やったりしているちょっと一風変わった連中は、すぐに目についた。
軽音などの音楽系サークル、劇団、落研、美術部や写真部の、それぞれちょっとクセのある奴らは、たいてい誰かが誰かの友達で、友達の友達がすぐに友達になって、学食の大きな黒テーブルあたりへ行くとだいたい誰かいて、そこでくだらない馬鹿話ばっかりしてた。時にはレコード貸し借りしたり、ライヴやイベントのお誘いがあったり、時には訳のわからない世界観を披露しあったり、底なしの哲学的な話に深入りしたり。
どの部も基本は先輩後輩中心の縦社会であまり他の部との交流をしたがらない自分たちだけでまとまるのが普通だったけど、なぜか僕たちの年代だけは横のつながりが強くて、サークルを飛び越えて軽音のギタリストとフォーク研のフォークシンガーがセッションユニットを組んだり、落研のメンバーが音楽系サークルのライヴのMCをしたり、劇団の演出がそういうメンバーを巻き込んで別プロジェクトで芝居を演ったり、そのイベントのテーマ曲を軽音のバンドが作ったり、そーゆーことがたくさんあった。
OBたちはそういうのを「自分の部の活動もろくにせんと、、、」と冷ややかな目で見ていたけど、僕たちはそういう枠組みなんかより、目の前にあるおもしろそうなことに夢中だったのだ。
縦社会的強制力で動くよりも、横のつながりでお互いがおもしろいことをやりたい、という感じが無意識にあった。



先日、“2019年のニューアルバムをたった1枚しか聴いていない”と書いたのですが、その直後に、2枚目をゲットしました。

カーリングシトーンズのファーストアルバム『氷上のならず者』です。

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それなりのキャリアを持ってそれぞれに活動しているベテランたちが、まさかのグループ結成とアルバム・リリース。
全員シトーン姓を名乗って、ってのは、ちょっとトラベリング・ウィルベリーズを狙ったんだろうかね。
奥田民生、トータス松本、斉藤和義、寺岡呼人、浜崎貴司、YO-KING。
6人とも、熱心なファンではないにしろアルバムの一、二枚は聴いたことあるし、フェスみたいなとこで観たこともある。ほぼ同世代で、聴いてきたものも近いんだろうな、と自然と共感してしまうアーティストたちだ。
そういえばトータス以外の5人は、寺岡がプロデュースしたチャボのトリビュート・アルバムに参加してたメンツだね。
それぞれにピンで活躍しているメンバーたちなので、もっとエゴの張り合いやプライドのぶつかりあいみたいなのがあっても普通なのに、そーゆー感じはまるでなく、ゆるくて楽しそう。
大ベテランなのに、大御所風を吹かすこともなく、ノリがめちゃくちゃ軽い。

このゆるさ、軽さ、水平型の世界観はなんとなくこの世代ゆえ、って感じもするんですよね。
少し上の世代までは「○○一筋」「一国一城の主たるもの」みたいな、よく言えば筋が通った、悪く言えば硬直的な、垂直型の思考形式が根強くあった。敗戦から高度経済成長を支えてきた上昇志向と、徳川時代の儒教的父兄家長的な世界観の名残りのようなものなんだろうな。
昭和40年代生まれになってくると、そういう垂直思考がどんどん崩れてくる気がする。世の中にモノが行き渡り便利さがあたりまえになる中で、上の人たちのやり方に違和感を抱きながら育ってきたせいだろうか。
逆にもっと若い世代では既に垂直型思考は完全に崩壊していて、水平型どころかべちゃっと型を成さず「内の世界でこぢんまり」が普通になってしまったような。
いいとか悪いではなく、育った時代による考え方の違いはあって当然なんだけど、カーリングシトーンズのやり方って、すごく同世代的だと共感してしまうのですよね。


このメンツでなんかおもしろいことやりたいよね、とりあえずやってみよーぜ、っていう軽いノリと、お互い縛りなく楽しくやろうぜというゆるさ。
その一方で、これだけのメンバーでやる以上しょーもないもんは出せないというプライド。
このメンツでやるからこその楽しさを思いっきり楽しもうというスタンス。
スケジュールの調整やレコード会社との交渉やら、思いつきを実現するにはきっと現実的なハードルはたくさんあっただろうけど、それを乗り切るフィットワークの軽さ。

1曲めのまるっぽジャンピンジャックフラッシュな“スベり知らずシラズ”から、バンドのテーマ曲っぽい、斉藤の“何しとん?”、浜崎の“俺たちのトラべリン”。
ファンクな“B地区”にロックンロールな“出会いたい”、トータスが歌うド・ブルースな“夢見心地あとの祭り”、ラストのモータウンな“涙はふかない”まで、ニコニコしながら聴いた。





へんな意地やこだわりなんて捨てちゃって、みんなこんなふうにおもしろいことを楽しめばいいのにね。






2019年ベストアルバム

12月ももう早や10日も過ぎてしまった。
2019年ももうあと残すところ3週間。
なんとなく今年を振り返ってみて、どっかの雑誌みたいに「2019年ベスト・アルバム」でも選んでみようかと思ってふと気づく驚愕の事実。

今年発売された
ニューアルバムを聴いたのは、
たったの一枚だけだ。。。


しかもそれもつい最近のこと。

20代頃なんて、週いちペース、年間50枚くらいは聴き漁ってたし、好きなアーティストのニューアルバムなんてワクワクして待ったものだったのだがー(←遠い目)。。。
この現役感のなさ、これが加齢というものなのか。。。

やっぱりね、若くて感受性豊かだった頃に入ってきたものっていうのがベースになってるからね、ベースが構築されていくと同時に新しいものの受け入れキャパは減っていく。
これは必然なのだ。やむを得ないことなのだ。
そう自分を納得させようとしても、やっぱりちょっと愕然とはしてしまうよね。。。


さて、その唯一の今年聴いたニューアルバム。
それはこれ。

THE WHOの13年ぶりの
ニューアルバム“WHO”!


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これがね、めちゃくちゃかっこよかったのよ。
再結成後の前作がいまいちピンとこなくってスルーしかかってたんだけど、youtubeでたまたま聴いた先行シングル“Ball and Chain”がけっこう良くって、あ、いいかも、って。
正直、メンバー4人のうちふたりも死んじゃって、それでもザ・フーを名乗るのかよ、なんて思いもあったんだけど、そーゆーの全部ぶっとんだ。
特に頭から4曲目まで、"All This Music Must Fade"、"Ball and Chain"、"I Don't Wanna Get Wise"、"Detour"までの怒涛の勢いは凄いです。
これが75才のジジイの音かよ、って。
もちろん、キース・ムーン在籍時と比べちゃいけない。でも解散前の“Who are you”や“Face Dance”よりずっとハチャメチャで勢いがある。
特にロジャー・ダルトリーが凄いね。
若い頃よりもさらに深み、凄み、荒々しさが格段にレヴェルアップしている感。
ピート・タウンジェントだって、ソロの哲学的でぼそぼそした感じじゃなくって、キレまくってる。
なんていうんだろう、スパッと抜いた脇差しの刀がギラギラ光るような無敵感。
分厚い雲の切れ間からパッと明かりが射したような高揚感。
天に駆け上がっていくようなポジティブさ、力強さ。
あー、こりゃロートルの小銭稼ぎじゃない、“ザ・フー”を名乗ってアルバム出すだけのことはある、、、なんて50年演ってるロックのオリジネイターに向かって不遜にも上から目線で納得したのでありました。





年をとる、っていうのはこういうかっこよさが出せるようになる、ってことなんだろうね。
積み重ねたベースに裏打ちされた、ど真ん中の直球勝負。
積み重ね、貫き、研ぎ澄ましてきたからこそ何の躊躇も遠慮もてらいもなく出せる「これだろっ!」っていう勝負玉。

新しいものなんて取り入れなくっていい。
自分の中にあるものをもっともっと深めていけばいい。
ここから先の10年20年、そーゆースタンスで行けばいいよなー、って、そう思ったらとても清々しい気分になったのでした。




音楽歳時記シーズン3「大雪」

サイモン&ガーファンクルにはなんとなく冬の音楽というイメージがある。
それは、このアルバムのジャケットの印象が強いせいかもしれない。
マフラーを巻いて分厚いコートを着こんだポールの表情は唇を少し歪め眼差しは遠くどこかシニカルで、対称的にアーティーは真っ直ぐに正面を見据える。ただし口元は見えない。

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Bridge Over Troubled Water / Simon and Garfunkel

静かで叙情的とも言えるテイストの曲が多い印象のせいか、サイモン&ガーファンクルのパブリックイメージはどこかじめっとして軟弱っぽく、ひ弱な優等生的だ。
彼らが活躍した1960年代後半、ロックが一番ワイルドでエネルギッシュでものすごいスピードで進化をし続けていた時期、主流は肉食系だった。ガッツガッツとあらゆるものを吸収しては全開でエネルギーを放出するのがロックだった時代の中では、サイモン&ガーファンクルの音楽は解放感もなく内向的で明らかに草食系。
そりゃひ弱くも映るんだと思う。
けど、サイモン&ガーファンクルの音楽は、叙情的なだけが魅力ではないと僕は思う。
例えばリズムのおもしろさ。
このアルバムなら“Cecilia”でアフリカンなポリリズムを取り入れているし、“Keep The Customer Satisfied”だって弾むようなリズムが心地よい。
有名な“El Condle Pasa”は南米のフォルクローレ、“So Long,Frank Lloyd Write”はボサノヴァなど、世界中の音楽を貪欲に取り込んでいる。そういう知的好奇心を原点とした音楽的冒険レベルはかなり高く、それはただの青白いひ弱な優等生ではできない、ある種の強さがあってこそのことだ。
“Baby Driver”のようにドライヴィングなリズムにブルージーなギターとシャウトがかっこいいソウルフルな曲だってあるし、“Bridge Over Troubled Water”ではゴスペルを取り入れたり黒っぽい要素もある。この曲を聴くといつもピリッと背筋が伸びる気がするのですよね。まるで国歌斉唱でも聴いているような荘厳な気分になる。

肉食系の情熱的でエネルギッシュな表現が主流だった時代に、自分たちの資質と志向に忠実に、淡々と草食系の表現を研いてきたからこそ、サイモン&ガーファンクル の歌は今もしっかりと心の奥底まで響いてくる深みと強度を持っているんじゃないかと思ったりするのです。
鍛練を忘れて怠惰になった途端に脂肪に変わっていくような筋肉隆々のロックではなく、繊細だからこそ丹念にひとつひとつの強度を練り上げながら作り上げた強さ、みたいな。

そのことに共感するのは、僕もまた肉食系の人たちに追いやられっぱなしの草食系な少年時代を過ごしたせいだと思う。
“The Boxer”の主人公の少年みたいに悔しい思いを何度もしながら、“The Only Living Boy In New York”の少年みたいに夢を見つけた友を取り残されたように見送りながら、草食系だからこその生き延び方を学んできたのだ。
暴力的であることを含む腕力の強さだけが強さじゃない、ルックスの良さだけがかっこよさじゃない、ただ甘いだけが優しさじゃない、そう思いながら自分なりの強さやかっこよさや優しさを思い描いたとき、サイモン&ガーファンクルの音楽はひとつの指針になったような気がする。



12月7日が大雪。
夜になって風がどんどん冷たくなってきた。
明日はかなり冷え込むらしい。
冬なんだもの、当たり前だ。
アルバムジャケットのポール・サイモンのようにコートとマフラーを巻きつけて冬に立ち向かっていくのだ。
ひとつひとつを丹念に練り込みながら、繊細であるが故の強さをしっかりと身につけたいと今も願いながら。




12月のジョン・レノン

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三日月のきれいな夕暮れ、
カラスたち山へ帰っていく。

もう12月かぁー。

古くからの友人の曲、
「12月のジョン・レノン」。






都会の野生

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いつも通勤で通る裏道はカラスが多い。
夜は飲み屋街で、深夜にゴミがたくさん出るせいだろう。
職場の近くには太閤秀吉ゆかりの巨大な公園があって、そこをねぐらにしているカラスたちが、朝飯を漁りにやってくる。
これを観察するのが朝の日課なのだ。

あいつら、すごいんだよ。

どんなに暑くても、こんなに冷え込んできても、いつもあの真っ黒姿で。
自分の食い物を毎日自分で探してる。
野生ってすごいよな。


人間は、自分一人の力で生き延びることなんてもはや到底不可能なほど野生から遠い生き物である。
自分の食べ物ですら、自分で見つけることができない。
どこかの誰かが狩猟や漁労をしたり飼育したり栽培したりしたものを、さらにどこかの誰かが加工したり包装したりして、どこかの誰かが運搬して値付けして販売したものを食べることで命をつないでいる。
遠くオーストラリアの牛肉、カナダの小麦、グリーンランド近海のさば、アイダホのポテト・・・国内で飼育された鶏が産んだ卵だって餌をたどればアメリカのとうもろこしだったりするわけで。
どこかで誰かが労働しているからこそ今日も食事を得ることができる。
そのための対価を得るために僕も労働している。

もちろん、仮に輸入が途絶えたり遠方からの流通が途絶えたりしたとしても、生活のレベルさえ問わなければ身の回りで採れるものだけで慎ましく暮らしていくことは不可能ではないだろう。
それでも、誰か他人の手を借りずに満足な食事を得ることはできないだろう。
いや、ひょっとしたらそれもなんとかなるのかもしれない。
だけど、火がなくっちゃ調理ができない。
靴がなくっちゃ歩けもしない。
服や家がなくっちゃ凍えてしまう。
拾ったどんぐりですら、熊のようにそのままかじることはできず何らかの道具がいるわけで、それほどまでに人間という生き物は道具を利用することが必要なのだ。

結局、人間の暮らしは、集団であることと、道具を使うことで成り立っている。

それに比べて。
あのカラスたちの潔さったら!

もちろん世界中に野生動物はたくさんいるし、ネズミやスズメやトカゲや昆虫や魚を含めて野生の生き物は身近に存在するけれど、それなりの大きさでそれなりの知性を持った生き物として、カラスは都会生活の中で一番近くで観察できる野生なのだと思う。

カラス。
かっこいいな。

人を襲うとか、ゴミを散らかすとか、なんとなく不吉だという理由でカラスを嫌う人も多いだろうけど。

カラスはめったなことで人を襲うことはありません。
カラスの体で人間を襲うなんて、人間が象を襲うようなもの。普通は勝ち目がない。野生動物は勝ち目のないことはしない。
襲うことがあるとすれば、子育て中の巣を守るとか、よっぽどカラスの興味を惹きそうな食べ物を無防備に持ち歩いているかくらい。
ゴミ問題だって、そこにエサがあるから食べているに過ぎない。
カラスから見たらゴミの山は、森の中で行き倒れた鹿の死骸が転がっているのと同じなわけで、そりゃ漁るでしょうよ。
不吉なのは、例えばカラスが死骸を食べたりするからだろうけど、戦闘能力としては決して高くないカラスは、生き延びる術として鷹のように狩りをするのではなくなんでも食べられる雑食力を身につけてきたわけだから仕方ないこと。

僕がカラスをいいな、と思うのは、そういう端っこい雑食さやクレバーな立ち回りのよさ。
それから、基本的に個人主義なところ。
集団でつるみはするけど、集団じゃなきゃ生きられないってこともなく、徒党を組んで集団のヒエラルキーだけで動くわけじゃないところ。
なかなかロックだと思うのですが。


さて、カラスの歌でも聴こう。

↑THE HIGH-LOWS↓のラスト・シングル“サンダーロード”のカップリング曲、
“カラスと俺がジャジャジャジャーン”。



ヒロトとマーシーの存在も、ある意味都会の野生と言えるかも知れないね。




Appendix

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golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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