言葉の流星群 / 池澤 夏樹宮澤賢治さんの遺した詩を、池澤夏樹さんが読み解いていくという体裁のこの本。
宮澤賢治さんの作品には、「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」、或いは「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」、教科書にも載っていた「やまなし」、などなど幼い頃からずいぶんと親しんできたのだけれど、詩となると、アメニモマケズ・・・か、あめゆじゅうとてちてけんじゃ・・・くらいしか実は知らなくて、印象としては求道的禁欲的、そしてやや宗教的で、ちょっとめんどくさい人的なイメージも少しあったのが正直なところ。
池澤さんはこの本では、作品そのものよりもつい伝記的な側面で語られてしまいがちな、カギカッコ付きの「宮澤賢治」を離れるためにあえて宮澤賢治を「ケンジさん」と呼び、そのことがなんとなく重い存在の宮澤賢治をとても身近に感じさせてくれることに大きな役割を果たしているのだが、それにしてもなぜ池澤夏樹が宮澤賢治なのか?となんとなく疑問を持ちながら読み進めた。
あ、いい詩だなぁ、と素直に感じたのは例えばこれ。
ああいいな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だって岩鐘だって
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
(雲の信号)
時間のないころのゆめ、という言葉にくらくらと果てしない気分がする。
青ぞらのはてのはて
水素さえあまりに希薄な気圏の上に
「わたくしは世界の一切である
世界は移らう青い夢の影である」
などこのやうなことすらも
あまりに重くて考へられぬ
永久で透明な生物の群が棲む
(青ぞらのはてのはて)
こちらも想像力を遠い世界に飛ばした詩。
気圏に棲む永久で透明な生物、という想定がおもしろい。
印象に残った解説としては、「詩人とは、日常から遠方に至るその距離感の表現者である。」ということ。遠方とはもちろん、距離的な遠方と、時間的な遠方の両方を指している。
そして、宮澤賢治の詩は常に「屋外に出て、地面に立ち、頭上に空をいただき、目が遠方の山か林を見ている。」ということ。つまりは自然の中に立って詩を書いた人であるということ。
そして池澤さんは言う。
「詩人は風景の中に精神的な意味を見つけることで、世界に意味があること、客観的な意味ではなく、自分にとっての意味があることを知る。それは、自分と世界が対峙しているのではなく、自分の中に世界があることの証でもある。生きているという感じは自分の周囲の世界の間をなにかが行き来することによって伝わる。」と。
「自分と世界が対峙しているのではなく、自分の中に世界がある」という言葉は、池澤さんの芥川賞受賞作である
『スティル・ライフ』 の冒頭でも同じようなことが語られていて、池澤夏樹という作家の表現の核のようなものだと思うのだけれど、この言葉を読んで、なるほど、池澤夏樹が宮澤賢治を読み解く意味はここにあったのだな、とすんなり腑に落ちたのだった。
今、時代はどんどんと近視眼的になっている、ような気がする。
少子高齢化問題を憂いながら、誰も未来の子どもたちどころか、今の若い人たちが困っていることにすら具体的な解決策を用意しない。原発問題、エネルギー問題を危惧しながら、結局は廃炉にしろ再稼働にしろ原子力ありきの発想の中でのシナリオから踏み出さない。そして安全保障の問題にしても、とにかく目の前にある憲法改正の悲願を叶えたいだけ、反対する方もだめだめの一点張りで、この国の歴史を振り返った上で将来にわたってどんな国にしたいのかのヴィジョンが語られない。
この国で多くの割合を占める年を食った人たちは、経済発展は自然から与えられたもので将来にわたって経済的な成長が可能なものだと考えている、そう思い込もうとしている、もしくは育ってきた過程からそのようにしか考えることができなくなっている、ように見えてしまう。遠い未来に暗雲が垂れ込めていようとも、とにかく現状を大きく変えずに取り繕ってさえおけば、少なくとも自分たちが生きている間は勝ち逃げできる、と。ぶっちゃけ、そのあとのことは知ったこっちゃぁない、と。
ニュースを見て、新聞を読んで、そんな感想を持ったあとにこの本を読むと、もっと遠くを見なければいけないのではないのか、という思いがよぎる。
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