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◇『新選組、敗れざる武士達』

今日は朝から雨が降っている。
しずしずと、さわさわとした静かな雨だ。
春の雨は悪くない。
物静かに休息を促すような優しい香りがする。
今日、4月25日は新撰組の近藤勇が斬首された日なのだそうだ。
もっとも旧暦の4月25日なので実際季節はもう少し先なのだろうけど。
たまたまだが、このしばらく読んでいたのは山川健一氏が書いた『新選組、敗れざる武士達』という本。
たまたま本屋で見かけて、えっ?山川健一が新選組?と最初は驚きつつ手にしたのだが、歴史書でもなく、新選組礼賛のエピソード集でもなく、健さんらしいロック的な視野から切り取られた幕末観は結構新鮮でおもしろかった。

新選組、敗れざる武士達


新選組、敗れざる武士達/山川 健一

健さんによると「歴史はどんな場合も勝者の側から描かれる。」
だから新選組は「いかがわしい時代錯誤的な存在で幕末の歴史には殆んど関与しなかった。」
時代のあだ花として今の時代では歴史ではなく物語の中にしか存在しない彼ら。しかし、新選組の数々の武勇伝が何度も何度も小説や映画やドラマとして題材にされ語り継がれているのは、時代の無意識が新選組に象徴される何かを求めているからなのだ、と。
明治新政府は、幼い天皇を即位させそれを背後から操ることで、大政奉還後もなんとか政治の中心に居座ろうとした徳川勢を徹底的に撲滅しようとした。そして奴等は、中央集権を掌握するために天皇を神格化して利用し、脈々と受け継がれてきた日本人の魂のようなものを根こそぎ排除し、西欧的な国家作りに邁進した。その流れは今尚続いているのだと思う。もちろん、西欧列強が日本を植民地化しようと企んでいたあの時代を切り抜けるにはそんな方法が実は一番賢明だったのかもしれないのだから一概に否定するのは結果を見てから批評するようなことでしかないのだけれど、ただあの時代にそういう方向へ舵を切ったことで失われたものはたくさんある。その失われたものに対するNOの声が、今も新選組を呼んでいるのだ、と。

その論に対する賛否はともかくとしても、新選組が残した数々のドラマは確かに今も僕らの心を揺さぶる。何より彼らのしようとしたことは頭でっかちじゃないのがいい。
時代が大きく動こうとする中で、自分自身の信じることを命を懸けて全うしようとした男たちの物語。
僕が住む町には、鳥羽伏見の戦いでの戦跡がある。毎日通勤で通る電車の路線は、鳥羽伏見の戦いで新選組がはじめての敗走をしたルートをたどっている。幕府派だった淀藩は、錦の御旗に怖れをなして官軍に寝返り、傷ついて城に保護を求めてきた新選組をはじめとする旧幕府軍の入場を拒否したのだという。つい先日まで将軍様の幕府を守り支える天下の軍隊だったはずの自分たちが、天皇や将軍の地位を脅かそうとする賊軍だったはずの薩長軍が掲げる錦の御旗に抵抗する賊軍扱いされてしまうのか?誰よりも自分たちが将軍様と天皇を慕って忠誠を誓ってきたはずなのに、どうしてその俺たちが賊軍なのか、と。そのときの新選組の面々の衝撃や悔しさはいかばかりだったのだろうか・・・と今も残る淀城の石垣を見上げて想像する。
鳥羽伏見の戦いでの敗北から関東への退却、そして近藤勇が官軍に捕まり斬首に処されるまではたったの4ヶ月しかない。そのわずか4ヶ月の間の自分を取り巻く環境の激変。斬首の白洲へ向かう近藤の心中はいかばかりだったのか・・・そのことを思うと心が痛む。
ただ一説によると、近藤勇は斬首の直前に「楽しかったなぁ」と呟いたのだそうだ。
事実かどうかはわからないけれど、近藤らしいエピソードだと思う。新選組のすごさは、何よりも「誰かに命令されたこと」を実行するのではなく、自分たちが信じたことに誠実だったこと、自分たちが楽しめるやり方でそれをやりとげようとしたことだと思う。
それにしても、これらはほんのわずか140年ほど前の話でしかないのだ。

先日まで異端だった考え方が、あっという間に正統のお墨付きを得て、誰もが当たり前にやっていたことが突然に悪であるとされるようなことは、実は意外とたくさんある。明治維新からの140年で一番大きなものは敗戦後の欧米や天皇への価値観の転換なのだろうけれど、日本人はそんなことに意外と柔軟で、例えば飲酒運転や喫煙場所以外での喫煙などはあっという間にとてつもない悪事であるとされてしまった。もちろん内容的には悪であることを当然であるということを充分理解した上で、なんとなくその身替りの早さに少し居心地の悪さを感じてしまう。少し悪い予感のようなものを感じる。声の大きなものが悪だといった瞬間に日本国中全員が掌返したように悪だと叫び出すような。
ひょっとしたら、自分が愛してやまないものが、或いは自分が正しいと信じて貫いてきたことがあるとき突然に社会から“悪”のレッテルを貼られてしまうとか、或いは異端と目されていたものが突然に脚光を浴びるというようなことは、意外と身近に自分自身の身にも起き得ることなのかもしれない。
そして、そんなとき、どんな行動を取るべきなのか。新選組のように身を捧げその身を殉ずるのか、それともさっぱりと新しい価値観に身を任せるのか、それはなんともわからないけれどいずれにしても、誰かに力づくでねじ伏せられたり長いものに巻かれるようにまきこまれていくのではなく、自分の意思で判断して、自分が楽しめるやり方を選びたいものだと思う。


ココロに花を

ココロに花を/エレファントカシマシ

蛇足だろうけれど、新選組を思いつつ聴きたくなった今日の一枚はエレファント・カシマシの『ココロに花を』。“男は侍さ…”なんて歌詞も登場するけれど、本人達は自分自身の思うままにやっていることが異端扱いされたり、突然に脚光を浴びたり無視されたり、そんな時代の気まぐれに翻弄されずに自分たちらしさを貫こうとしている姿勢も含めて僕は好きだ。


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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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