Gone Again / Patti Smith Gone Again Beneath the Southern Cross About a Boy My Madrigal Summer Cannibals Dead to the World Wing Ravens Wicked Messenger Fireflies Farewell Reel 11月の末の高野山は、穏やかなお天気に恵まれたにもかかわらずきゅっと冷えた空気が流れていた。
折しも開山1200年の秋の3連休ということもあって、多くの外国人を含むたくさんの観光客で賑わってはいたけれど、やはりこの山にはただの浮かれた観光地ではない独特の空気感が漂っている。
僕と母親と兄と弟がここを訪れたのは観光目的ではなかった。3年前の冬に亡くなった父親の骨を山に納めるためだ。
いわゆる仏様=喉仏の遺骨をこの山で供養してもらうことで、魂が仏様の元で安らかに眠ることができるのだそうだ。父親は取り立てて信心深かったわけでもないし、そういう遺骨の処理の方法を熱心に望んでいたとは思わないのだけれど、ま、遺族はちゃんと成仏されることを願っていますので閻魔様ひとつよろしくお願いします的ないわば極楽浄土へのオプション装備みたいなもんだな、たぶん、なんて思っていた。
こんな罰当たりな言い方をする僕はもちろん、極楽浄土も地獄も仏様も信じてなどいない。人間だって他の生き物だって、死んだら元の元素に戻るだけのことだ。それが自然の摂理だ。
そんなことを思いながら、社務所で手続きを終え、お堂の中へ。
高い高いお堂の天井からオレンジの灯りの灯籠が無数にぶら下がって闇を照らしている。
お香の臭い、お経、きりりと引き締まるような冷たくも清浄な空気感。
お線香をあげ、手を合わせて拝むうち、僕の中にある光景が浮かんできた。
それは白装束に足袋を履いて、暗い道を灯籠の灯りを頼りに歩いていく父の姿だった。
あぁ、そういうことなんだな。
思いがけず僕は、父の魂が、ちゃんと永遠の安らぎを得られますように、と願っていた。
それが祈り、ということなんだな。
そういうことなんだ。
極楽浄土も地獄もある。仏様はちゃんといらっしゃる。
具体的に物質として存在するかどうかの問題ではなく、残された人ひとりひとりの心の中にあるのだ。
お寺やお墓や仏壇は、その心の中にあるもうひとつの世界への入り口であって、そのもうひとつの世界へ通じる回路としてさまざまな儀式がある。その儀式を通じて、残されたものの魂は癒されていく。残されたものの魂が癒されることが即ち故人の成仏ということ。
そんなことをぼんやり思いながら、手を合わせてお経を呟く母親の後ろ姿を見ていた。
お香の煙と蝋燭の炎、その向こう側に白い紙にくるまれて白木の台に乗せられた父の肉体の最後の欠片に、母は永遠の別れを告げている。永遠の別れ、そして父は永遠になる。
祈り。
96年、パティ・スミスの8年ぶりの復帰作となったこのアルバムは、死者への鎮魂の思いがたくさん込められた作品だ。
8年の活動休止の間にパティは、かつてのバンド仲間と、ローディーを務めていた弟と、そして最愛の夫を亡くしている。
そのサウンドはとてもシリアスでとてもへヴィーだ。
だけど、おどろおどろしくはない。いわゆる死への恐れを感じさせない。それどころか、どこか不思議な明るさや清々しさすらあるように思える。
明るさといってもキラキラした明るさではなく、何て言うんだろうか、ほの暗い道を照らす一条の灯りのような明るさ、清々しさといってもさわやかな晴れ間ではなく、ひととおり泣き終えたあとの清々しさ、みたいなもの。
その感覚は、高野山で経験したお堂の中の灯籠の灯りや、きりりと清浄な空気感と少し似ているような気がする。
「私も死んだらおんなじようにここへ連れてきてな。」
帰り道、母はそんなことをほろっと呟いていた。
僕達兄弟は、そうするためにいつかまたこの山を訪れることになるのだろう。
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