ある夜帰宅したら、僕の部屋に謎の男がいた。薄黄緑色でぺったり肌にはりついた見慣れない服装と不思議な形のメガネを装着したその男は、空間にモニターを出現させてから何事かを話し始める。 「私は2525年の世界から来た歴史調査官で、20世紀の文化について研究している者です。この時代は特に音楽と映像の文化が飛躍的に発展した時代でありました。単刀直入にお伺いします。この時代を象徴する音楽について何か一枚紹介してください。」 最初は何か気が狂っているのだろうと思ったのだが、その男の態度はあまりにも真摯で誠実だったので、いや、今思えば何か敵意をそぐような物質でも発していたのだろうか、とにかくこの男に協力しなくては、とその時は思ったのだった。 「うーん、やっぱり今ならAKB48っすかねぇー。」 はぐらかすつもりでそう答えると、 「そのグループについてはもう解析済みで、あれは社会現象としては興味深くはあるものの、音楽表現としては私の研究対象ではないのです。もっと人々の暮らしと深く関わった音楽のことが知りたいのです。」 と、その男。 「どうやら本気のようですね。それなら、僕はこれだと思います。」 そう言って僕は棚から一組のCDを取り出してプレイヤーにセットした。 「スティーヴィー・ワンダーの“Songs in the Key of Life”です。確か1976年の録音です。」
アルバムは、庶民の味方のアナウンサーを名乗る男が、「今こそ愛が愛を必要としています。憎しみが蔓延し手遅れにならないうちに」と呼びかけるLove's In Need Of Love Today で始まる。穏やかで誠実な演奏の愛のメッセージだけど、そのきっかけには何かとても痛ましい事件や辛い喪失があったことを想起させるようなニュアンスだ。 2曲目は重いベースのフレーズが深刻さを映し出すHave A Talk With Godは、 「人生が辛すぎると感じたときには神の元へ話に行くといい。」 と歌う信仰の歌。ここにも精神的に追い込まれている人間の姿が描かれている。 この時代、アメリカは建国200年の享楽的な繁栄とは裏腹に、ベトナム戦争の後遺症に蝕まれていた。ヒッピーたちの歌った愛や自由は幻想に終わり、人々は物質的な豊かさだけを追い求め、一方で人々の心は加速度を増して孤立していた。黒人への差別は表向きは解決されたものの貧富の差はより深まるばかりだった。 弦楽四重奏が奏でるVillage Ghetto Landはそんなゲットーの現実を描いた歌。 先鋭化する民族運動はBlack Manで歌われている。強烈なファンク・ビートに乗せて、アメリカ史上に功績を果たした有色人種の名前を列挙し、「正義は万人の味方とはいえず歴史は繰り返されるけど、この世界は万人のために作られた。もう学んでもいい時期だ。」とストレートなメッセージを高らかに掲げ、Ngiculela - Es Una Historia/I Am Singing では、途中、スペイン語やズールー語で歌われるフレーズを挟みながら、「僕は愛を歌う。いつの日か愛が僕らの世界中に行き渡ることを歌う。」と宣言する。 そしてSaturnで歌われるのは、土星人から見た地球の姿。「銃と聖書を手に身構えるあなた方のことが僕には信じられない。俺たちの望むものを渡さなければお前を殺す、というあなた方が。」という土星人は、ひょっとしたら地球に見切りをつけて移住した人々だったのかもしれない。 都市の暮らしの中で孤立した人々の心を歌ったのは、Pastime Paradiseや1枚目の最終曲に当たるOrdinary Pain、少年時代の回想を歌ったI Wishにも満たされない現状と傷心の悲しみが感じられるし、All Day Suckerにも愛を得られずに苦しむ男の姿が描かれている。 一方でそんな悲しみを癒やすような、穏やかなラブ・ソングもいくつか。 Knocks Me Off My Feet、 Summer Soft、Joy Inside My Tears・・・そして、命の誕生を祝福するIsn't She Lovely 。 ハービー・ハンコック参加のAsや、ボビー・ハンフリーやジョージ・ベンソンが参加しているAnother Starといった大作から、ドロシー・アシュビーのハープをバックにIf It's Magicや、夕暮れの情景のように懐かしい感じのスティーヴィーのハーモニカが優しく響くEasy Goin' Evening (My Mama's Call)、ジム・ホーンがキュートなサックスを吹くオーソドックスなR&BナンバーのEbony Eyesといった小曲まで盛りだくさん。個人的にはこのEbony Eyesのかわいらしくも生命力の張りを感じられる感じが一番好きだな。ゲットーのハードな暮らしを Village Ghetto Landで描きつつ、否定的な側面だけでなくそこに生きている人々の魅力を黒い瞳の少女を通じて描くバランスに、この作品でスティーヴィーが表現したかった世界が垣間見える。 そしてデューク・エリントンやグレン・ミラー、カウント・ベイシーやルイ・アームストロングの名前を列記しながら、音楽の素晴らしさを表現するSir Duke。 「 音楽はそれ自体がひとつの世界で、そこには誰でも理解できる言葉があり、誰もに歌い、踊り、手拍子をとる平等の権利があるんだ。」という言葉の中に、スティーヴィーのメッセージのすべてが集約されているような気がする。 いやー、やっぱりこれは20世紀を代表する素晴らしい作品だな。 時代を切り取ったシリアスなメッセージ、けれどただ嘆くだけではなく愛と音楽の力を信じてポジティヴにいこうとする姿勢、そのことがリズムとメロディーで体と心に直接伝わってくる。
ひと通り聴き終えたあと、未来人の男は何やらモニターに向かってひとしきり解析を済ませたあと、こう言った。 「私の住む26世紀の世界では、20世紀は非常に悪い時代だったと認識されています。20世紀人は、戦争と自然破壊をのべつまくなしに行い、資源を枯渇させ、その上人類を破滅寸前に追いやったのです。人類はこの後の時代、あなた方が後先構わずに使い尽くした上に廃棄した、あなた方の時代で言う放射性物質、核のゴミの後遺症に苦しみました。人類が再び文化的な暮らしを獲得するまで、実に400年もかかったのです。」 僕は返す言葉を失う。その男は続ける。 「この音楽は素晴らしいです。この音楽を聴いて、20世紀人が単に欲望にまみれた野蛮な存在ではなかったことがようやく私にもよくわかりました。20世紀人も人を愛し、争いを憂い、平和と協同を求めていたのだということが。このことは26世紀で必ず伝えます。」 男がそう言うと、途端に辺りは真っ暗になり、吸い込まれるように僕は気を失ってしまった。 どれくらい時間が経ったのか、目が覚めて辺りを見渡すと、そこはいつもの僕の部屋だった。帰宅した時間から数分も経っていなかった。 なんだ、幻覚か?瞬間的に居眠りでもしてしまったのか?ずいぶん疲れているな。 そう思いながらふとCD棚に目をやると、“Songs in the Key of Life”のCDだけが抜き取られて消えていた。
Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。 “日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。 自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。
未来人・・・ひどい設定ですいません(笑)。
僕は長いことレンタルレコードでダビングしたカセットテープで聴いてました。何かで臨時収入があったときに買ったのかなぁ、3800円くらいだったと思います。
未来人に持っていかれたのでもう一枚買わないといけません(笑)。