THE仲井戸麗市BOOK / 仲井戸麗市 Rereleased:1985
RCサクセションが一世を風靡した80年代前半、僕は中学生~高校生。
思春期の一番ナイーヴで満たされない時期をRCサクセションの歌とと共にしたわけで、もちろん清志郎の圧倒的な存在感に打ちのめされたのだけれど同時に、チャボの清志郎とは違うクールでへヴィーなやんちゃさにも憧れていた。
むすっとふてくされたような不敵な感じで清志郎の横でギターを弾く佇まい。
インタビューでの世間をなめきったような受け答え。
それに、『BLUE』以降のRCのアルバムに1曲は必ず入っていたチャボのヴォーカル曲がかっこよくって。
「チャンスは今夜」「ハイウェイのお月様」「ブルドッグ」「セルフ・ポートレイト」、シングルB面だった「ノイローゼ・ダンシング」・・・、俺は清志郎よりチャボ派だ、なんてうそぶいて、チャボの曲だけをカセットテープにまとめて録音してウォークマンで聴いていたりもしていたな。
そんなチャボが35歳の時の初めて録音したソロ・アルバムが、この『THE仲井戸麗市BOOK』。
今でこそとても社交的で、いろんな人のライヴやレコーディングにゲスト出演したりセッションを楽しんだりしている様子だけれど、当時僕が親近感を抱いたチャボは、内向的でナイーヴで出不精で非社交的で、満たされない怒りをぐらぐらと抱えているような存在だった。
このアルバムには、このアルバムにしかないその頃のチャボの姿が刻み込まれている。
そしてこのアルバムは、個人的にも先が見えない不安の中をうろうろしていた思春期の自分とシンクロして、とても思い入れ深いアルバムなのだ。
♪俺の脳みそ、レヴォリュゥ~~ショォォォォォ~ン!
不穏なギターのイントロから荒々しくどろどろとした叫び声をあげるチャボ。
1曲目の「
別人 」から、クレイジーなハイテンションにガツンと脳天チョップを食らうように思いっきりぶちのめされた。
そこには、RCで清志郎の横でキースっぽいポーズを決めているチャボとは違う顔のチャボがいた。
オオカミの咆哮みたいにドスを効かせて吠えるヴォーカルと、ノイズっぽいというか向こう側へふりきれちゃったようにぐちゃぐちゃにぶっとんだギター。すげえ。
この曲とB面の「
ONE NIGHT BLUES 」がこのアルバムの一番のハイライトだろう。
引きずるようなブルース感覚とどこか郷愁的な甘さ、そしてトム・ヴァーレインみたいにメラメラと青い焔をあげて燃え上がっていくギター・ソロ・・・そこにある静かな怒り、深い絶望感、無力感、そんなすべてが乗り移ったような・・・思わず息をのんでしまうような圧巻のテンション。すげえ。
この当時のチャボの中にはずいぶんとある種のフラストレーションが鬱積していたのだろうか。
このアルバムの前年に出ていたRCの『Feel So Bad』に収められていたチャボのソロ「セルフ・ポートレート」でもとても静かに怒りを表していたけれど、このアルバムはそれをより内に向け増幅させたような感じがする。
RCのライヴでもよく演っていた「
打破 」、清志郎がコーラスで煽りまくる「
早く帰りたい Part II 」。
比較的わかりやすいロック・ナンバーだけど、ここにも飢えた野良犬が吠えまくるような荒々しさと、自分を束縛しようとする者へきつい一撃を食らわせてやりたい、みたいな負のテンションがあって、それは「
カビ 」や「
BGM 」といった皮肉っぽくて毒がある曲にも共通している。
そんなふてぶてしく、世の中を斜めに見たなめた態度と、「
秘密 」や「
MY HOME 」で垣間見える筋金入りの引きこもり的心の狭さこそが当時僕が感じていたチャボらしさで、何しろこんな風にこじんまりしたことをここまで凶暴に歌う人なんて誰もいなかったし、だからといってそういうことを友人と共感しあえるわけでもなく、だからこそこのアルバムは僕の中で特別感を増していったのかもしれない。
そしてそんな中に紛れているからこそ、ぽっこりと咲いたかわいらしい花のような「
ティーンエイジャー 」のチャーミングさや、その後もチャボのモチーフとして頻繁に登場する月と夜にからめたラブソングの「
月夜のハイウェイドライブ 」のきゅっとせつくなるようなセンチメンタルや 、チャボの永遠のテーマである夏への郷愁を奏でたインストの「
さらば夏の日 '64 AUG 」 にあるピュアな美しさがとても素敵でね。チャボの生来の人の好さを感じさせてくれる。
そんなチャボの、怒りまくって苛立ってばかりではあるけれど本当は優しい奴なんだよ、みたいな感じもまた自分自身にも重ね合わせてはなんとか自分を肯定していたというか、そんな感じだったような気がする。
もうずいぶん前のことで忘れてしまいそうだけど、このアルバムはそんな風に自分自身にとってもとても大切なレコードだった。いらいらしたとき、やりきれないことがあったとき、大音量でこれを聴けば、最後の「さらば夏の日」にたどり着くころには癒されている、僕にとってはそんな、いわゆる魂の浄化用の大切なレコードだったのだ。
そして、仲井戸麗市という一人のアーティストにとってもこれは重要な作品だった。
RCで初めてチャボを知った僕たちの世代にとってはチャボの印象は“ロックバンドのギタリスト”なのだけれど、実はそれ以前、チャボは古井戸のギタリストであり、ソングライターでもあったわけで、清志郎と出会って以降はその才能を封印してまでも献身的なまでに清志郎をサポートして清志郎の世界観をいっしょに作り上げることに専念していたのだ。本来の自分のキャラではない“ロックバンドのギタリスト”を一生懸命演じていたという部分も実はあったのだろう。
そんな中で、自分の感じたことを感じたように表現したいというアーティストとしての欲求を抑え込んでいたものが、このアルバムで爆発したのだと思う。RCのギタリストとしてではない仲井戸麗市、しかも古井戸の頃のままでもない、RCでの経験や清志郎からの影響も含めての中でギタリストとしてアーティストとしてパワーアップした35歳の仲井戸麗市を表現したいという欲求。
このアルバムで描いて見せた文学的な世界観で得た手応えがこの後のRC作品に収められた「グローリー・デイズ」、「遠い叫び」、「ギブソン」、「うぐいす」に連なっていくのだが、それらは明らかに清志郎の描く世界とは方向を異にしていたわけで・・・、結果的にこのアルバムがRC解散の序章になった。
でもそのことを否定的には捉えてはいない。
そもそも忌野清志郎と仲井戸麗市というふたつの稀有な才能がコラボレートし、お互いに刺激を受けて高めあっていたあの一時期があまりにも特殊であまりにもグレイトだったのだ、と。
ソロや麗蘭、後に参加した泉谷しげるとのLOSERでの仕事も含め、そもそもロックバンドのギタリストとしてひとりの表現者として、異なる次元をこれだけ器用にこなしながらいずれでも高い水準の作品を残し続けた人が他にどれだけいるだろうか?と考えたとき、偉大な忌野清志郎の相棒だけではない、仲井戸麗市の幅の広さと奥行きの深さを思い知るような気がする。
大げさかな(笑)。いや、チャボに関してはそれくらい大げさな賛辞があってもいいはずだ。
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お待ちしておりました。
8月末のことはわかっていて先に書きました(笑)。
「秘密」、いいですねぇ。暗いからいいんです。
♪いい逃れ探そう / 狭い心持とう / 腹を割らずに 彼等と話そう、ってとこがすごく好きです。
1曲1曲ももちろんいいんだけど、全体を通して聴くとほんと癒やされます。
やっぱりチャボ派で行こう(笑)。