がんばりすぎてとうとうダウン(笑)。 ちょっとめんどくさいトラブルの目処がたってほっとしたせいか、金曜日の朝から脳みそがまるで働かなくなってしまい、早々に帰って爆睡。12時間寝てちょっと回復、遅れた分を土曜日に一日かけて取り戻しました。 やらないといけないところまでやれて、ちょっとスッキリした気分。 宿題を持ち越して、また週明けからへとへとなのも嫌だったので。 今日は思いっきりだらだらする休日。 こういう疲れたときに癒やしてくれるのは、落ち着いた語り口の文章なのです。 遠い朝の本たち / 須賀 敦子 須賀敦子さんは、1929年生まれ。
学生時代にイタリアに惹かれ、29歳のときにイタリアに渡り、翻訳などで活躍された後、帰国。50代の後半からイタリアでの経験を主軸にした随筆で作家となり、69歳で98年に亡くなるまで、多くはないが素敵な著書を残された。
この本は、イタリアがらみではなく、少女時代からの本にまつわる思い出を中心にしたもの。本への思い出と共に、厳格だった父親や、仲良しだった妹、戦時中に共に疎開した幼なじみや、学校の先生や旧友、そして幼い頃の自分の事が語られている。
春だな。それが、最初に私のあたまにうかんだことばだった。そして、そんなことに気づいた自分に私はびっくりしていた。皮膚が受けとめたミモザの匂いや空気の暖かさから、自分は春ということばを探りあてた。こういうことは、これまでになかった。もしかしたら、こんなふうにしておとなになっていくのかもしれない。論理がとおっているのかどうか、そこまでは考えないままに、私はそのあたらしい考えをひとりこころに漂わせて愉しんだ。
だが、その直後にあたまをよぎったもうひとつの考えは、もっと衝撃的だった。それは、「きっと、この夜のことをいつまでも思いだすだろう」というもので、まったく予期しないまま、いきなり私のなかに一連のことばとして生まれ、洋間の暗い空気の中を命あるもののように駆けぬけた。「この夜」といっても、その日の昼間がごく平凡であったように、なにもとくべつのことがあったわけではない。それでも、ミモザの匂いを背に洋間の窓から首をつき出して「夜」を見ていた自分が、これらのことばに行き当たった瞬間、たえず泡だつように騒々しい日常の自分からすこし離れたところにいるという意識につながって、そのことが私をこのうえなく幸福にした。たしかに自分はふたりいる。そう思った。見ている自分と、それを思い出す自分と。
須賀さんが女学校二年生の頃の体験を思い出して書いた「『サフランの歌』のころ」という随筆より。
たくさん書き出しちゃったけど、この文章、好きだなぁ。
穏やかで透明感があって、明晰だけど静かな感情の流れがあって。
遠い日の、キラキラしたものを思い出す。
素敵な音楽のようなこういう文章に触れると、心の奥底で元気がふつふつと湧いてくるような気がする。
雪がちらつく今日、寒さはまだまだ厳しいけれど、心の中、すこしだけ春の兆し。
また明日からもがんばれそうな気がしてきた。
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>文章の美しさにうっとり
>深いところに降りていく
まさにそんな感じですね。
早くに亡くなられたのが本当に惜しい方でした。
サイン本も、この先増えることがないので貴重なんでしょうね。