もし手元に世界地図があるのならアフリカ北部のページを開いてみてほしい。 少し大きめの地図にならば、カイロ南西の方向へ約300kmのあたりに、バウィーティという地名が記されているはずだ。そこから南にはリビア砂漠と記されたベージュ色に塗りつぶされた地域しか見当たらないはず。 僕が向かっていたのはバハレイヤというオアシス。バウィーティはそのオアシスにある小さな村落だ。 今にも故障しそうなおんぼろバスに、もうすでに8時間近く揺られていた。 何箇所目かのバス停で浅黒い肌で精悍な顔つきの男が乗り込んできた。 「Hey,man!Where are you come from?」 僕の隣に座った男は、そう言って僕の耳のイヤフォンをぱっとはぎとって自分の耳に当てた。 えっ、なんやこいつ、と普通なら思うのだけれど、その頃僕はもうエジプト人のそういう行動には驚かなくなっていたのだった。 そしてその男は、そのとき流れていた音楽に合わせて歌い出したのだ。 ♪No woman,No cry~ 「Do you know Bob Marley?」 「Yes,I like this.」 それが彼、アシュラフとの出会いだった。 アシュラフはバウィーティの村で観光の仕事を手伝っているとのこと。 「友達がホテルを経営しているから紹介してあげるよ。」 そういってバスを降りたら彼はずんずんと歩き出す。 町の中心部を貫くメインストリートは未舗装ででこぼこ。 道の脇に数件、トタン屋根で壁のない掘っ建て小屋のカフェがあって男たちが水たばこをかいでいる。 たどりついたホテルは石造りの一階建て。 村の人々はみんなとても親切で、代わる代わる家に呼んでくれては、チャイをのんだり、さっきまで生きていたチキンをさばいて振る舞ってくれたり、アラビア語やイスラムのお祈りの方法を教えてくれたり、一弦しかない元祖ギターみたいな楽器で歌ってくれたり、ルクソールで怖い思いをしたばかりだというのにそんなことはすっかり忘れて楽しんだのだった。 まるで「世界ウルルン滞在記」みたいな(笑)、僕にとっては忘れられない一週間になった。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * バハレイヤについて3日目、アシュラフの運転するランド・クルーザーで「ホワイト・デザート」と呼ばれる景勝地へ出かけた。 気温40℃強。陽射しは焼けつくように暑い。けれど、湿度が高くないので想像していたほどには暑くない。 このような気候で暑さをしのぐには、肌の露出を極力控えて日光を直に浴びることを防ぎ、体の中への風通しをよくすることが大切。Tシャツや半ズボンよりも、エジプト人の着ているガラベーヤと呼ばれるだらーんとした一枚ものの白い布はとても理にかなっているのだ。 オアシスを少し離れれば、そこはもう360度地平線、見渡す限りの砂の世界。 まるで地の果てに来てしまったみたいだ。 夕方になり、地平線に夕日が沈んでいく。 空が真っ赤に染まり、やがて濃い紺色に覆われていくのを、僕はずっと眺めていた。 その傍らでアシュラフはお祈りを済ませてからコンロで夕食の準備。 そのまま砂漠でキャンプするのだ。 とはいっても、テントすらない。大きな絨毯を敷いて寝袋で眠るだけ。キャンプというよりは野宿だな。 ピラフとチキンを頬張りながら、アシュラフが言う。 「おまえの国の神様について話してくれよ。」 「日本人はだいたいが仏教徒だけれど、ほとんどの人間は信仰深くはない。ノー・レリジョンだ。」 そういうとアシュラフは目を丸くして、 「ノー・レリジョン?神様を信じないのか?」と聞く。 「ブッダをマホメットやアッラーのように崇め奉ることはしない。僕たちが拝むのはご先祖様や、それから森や川や田んぼにいるメニー・メニー・メニーな神様なんだ。」 「ちょっと待ってくれ。マホメットとアッラーを同じ次元で考えてはいけない。マホメットというのは人間で、神ではない。あくまで神の言葉を預かったに過ぎない。イスラム教徒は、キリスト教徒がジーザスの肖像を崇めるようにマホメットを拝んだりはしないのだ。」 「え???」 「そもそもイスラム教では、偶像崇拝は禁止されている。」 そうか、そう言われればマホメットがどんな顔をしているか見た覚えがないし、モスクの中にも誰の肖像画も描かれてはいない。 「じゃあ、アッラーって何?イスラム教徒は全部アッラーの思し召しだとか言って結局何の努力もしていないように見えるけど?」 「アッラーというのはこの宇宙の創造者のことだ。この宇宙で起きるすべてのことは、アッラーの思し召しなのだ。アッラーは、人間の姿をしているわけではないのだよ。おまえの言う、森や川や田んぼにもアッラーの意志がある。森や川や田んぼを拝むこととアッラーに祈ることは同じことだよ。」 アッラーには姿、形がない。そうか、つまりはこの世に起きる森羅万象そのものが神様で、イスラム教徒はそれをアッラーと呼んでいるというだけのことなのだな。 西洋人が信仰している神様というものは人間の形をしている、と思い込んでいた僕はそのとき軽いショックを覚えたのだった。 たまたま月のない夜だった。 見上げた空は、無数の星で埋め尽くされていた。 こんな星空、プラネタリウムでも見たことがない。何しろ地平線まで360度、全部が星空なのだ。 星が見えすぎて、何がどの星座なのかまるでわからない。 こんな星空の元にいると、神という概念をずいぶんと素直に受け入れることができるような気がした。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *Salif Keita - Mandjou Amen / Salif Keita 音楽は、サリフ・ケイタ。
僕が訪れたのはサハラ砂漠の東のはずれ、そのサハラ(ちなみにサハラとはアラビア語で砂漠のことだそうだから、サハラ砂漠という呼び方は本当は正しくない)のちょうど西のはずれに位置するマリが生んだ世界的なミュージシャン。
サリフの音楽を聴くとき、彼の音楽からあふれる宗教的な響きや、信仰の篤さに裏打ちされた奥の深さに圧倒されてしまう。
日本では戒律が厳しいことくらいしか知られていないイスラム教。
お酒を飲んではいけない、豚肉を口にしてはいけない。「自由の国」である僕たちからすればなんと不自由で非合理な古くさい宗教なんだろうかと多くの人がそう思っている。或いは「目には目を、歯には歯を」という言葉や、死をも恐れぬ自爆テロを平気でやるような野蛮な宗教だと。
でも、それは知らないゆえの偏見なのだ。
イスラムとは「神に委ねる」という意味で、その考えの根本は「神に委ね、神の前で謙虚になり、慎ましく生きる」ということ。
そもそも日本人はヨーロッパ中心の世界観を学校で教わるから、ヨーロッパやアメリカの文化こそが最高で他の国々はとても文明の遅れた国だと言う潜在意識が刷り込まれている。けれど、それは大きな誤解だ。
元々エジプトやメソポタミアは文明の発祥の地。彼らからすればアメリカにしろ日本にしろポっと出てきた新興国でしかなくって、そもそも自分たちの国こそが世界の中心なのだ。
そしてイスラム教の戒律の厳しさは、実は文明が進歩していたからこそ生まれたのだった。
その昔栄華と繁栄を極めた文明が迎えた末路は、資源の枯渇による衰退だった。
栄えた文明が失われるのを目の当たりにした彼らは、人間が欲望のままに振舞うことは滅亡への道、戒律で行動を律し戒めなくてはならない、というイスラムの考えを導き出し、多くの人々が受け入れた。
つまりイスラムはすでに世界の終わりに一度直面した後の来るべき時代への考え方がちりばめられた宗教なのだということ。それを知らない遅れてきたポッと出の新興国は、イスラムの人々が敢えて踏みとどまったボーダーをいとも簡単に飛び越えて、蒸気機関と石炭石油を武器に世界中を荒らしまくり、欲望のままに食い散らかし使い尽くし汚しまくり、たかだか100年少しの間に、地球環境をを人間が生きていけないようなものになるほど追い込んでしまったのだ。
原発を今後どうするのかの問題について、原発の稼動に賛成の考え、反対の考え、いろいろあるけれど、そのことの是非の論議はそのまま、少子高齢化の時代を迎えたこの国の「今の豊かさ」を今後も維持していくべきなのかどうなのか、ということなのだと思う。
欲望のままではない、ある一定の制約を敢えて受け入れること。
そんなイスラム的な考え方が、今こそ必要とされているのではないかと思ったりする。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
翌朝、ひんやりした空気で目が覚めた。
砂漠の明け方は、放射冷却でずいぶんと冷え込む。
東の空が紫に変わろうとしていた。
僕はアシュラフを叩き起こして、こう聞いた。
「グッド・モーニングはアラビア語で何ていうんだ。」
「صباح الخير サバールルヘール。」
僕は、登ってきたお日様に向かって大きな声で「サバールルヘール!!!」と叫んだ。
それからアシュラフが入れてくれた砂糖たっぷりのチャイを飲んだ後、アシュラフのいう手順に従って手足を清め、アッラーへのお祈りをした。
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誉められると図に乗るタイプですが(笑)ありがとうございます。
>お金がたくさんあっても日本人は幸せそうじゃない
そう言われるのは辛いですね。
モノもお金もあるに越したことはないですが、目的じゃなく、あくまで幸せに暮らすための道具、そこをはき違えるととてもしんどくなります。なければ不安になるし、あったらあったでもっと欲しくなって、結局不安になる。
神様という仕組みのすごいところは、不安が軽減されることなのかなー。というか、神様という仕組みを発明するほど、人間は不安になる生き物なのでしょう。
欲張らずに、ちょっとしたことで幸せを感じれるようでありたいなー、と思います。