数日前、未だに洪水の被害が拡大中のタイからのニュースの中に「アユタヤ近郊でワニ100頭が逃げ出した」という記事があった。観光やハンドバッグ加工用に飼育されていたものらしい。 逃げ出した100頭のワニ。 洪水で水浸しになった町の中をばしゃばしゃと泳ぐワニたちの姿を想像して、僕は不思議ととても救われた気分になった。 もちろん、住民にとってはとても恐ろしいニュースだし、そんな事がもし身近にあったならばパニックになっちゃうだろうから、この感想は極めて不謹慎なものだと思うのだけれど、僕はなんだか嬉しくなってしまったのだ。 彼らがハンドバッグにされる運命から免れたからではない(そんな心配はグリーンピースに任せておけばいいのだ)。解放された彼らには、その後もっと悲惨な運命が待ち受けているに違いない。 それでも僕は何故か救われた気持ちになった。それはなぜだろう。 ワニについてとても印象深く心に残っているエッセイがある。 図書館で借りた小川洋子さんの『妄想気分』というエッセイ集に収められていた話で、時折自分の心の中に動物達が棲みついて、その動物達に話を聞かせるようにして小説を書いていることがあるというような主旨の話だったのだけれど、その中にワニが登場する。 子どもの頃に訪れた動物園で見た、とても大きなワニ。 そのワニはとても巨大でどんよりと暗く、両肩がぎりぎりに納まって尻尾は折り曲げなければ入りきれないほどの小さな水槽にいた。水槽に入っているというよりははまっている感じで、とても泳ぐ余裕などない。水面からのぞく二個の目を時折ぎょろぎょろさせているだけで、すべてがどんよりと暗闇に沈んでいた。死んでいる方がまだ救いがあるように思えた。 『どうにかしてワニの心を慰めたいと私は願った。「大丈夫よ。もうすぐ大きな水槽に戻れるから」と言って彼を励ましたかった。私はワニのために絵本を読んでやるようになった。ワニが沈む暗闇に向かって、一言一言、静かに語りかけた。』 そんなお話。 妄想気分 / 小川 洋子 僕が小さな頃に訪れた動物園にも、同じようにコケでフカミドリになった小さな水槽の中でじっとして動かないワニがいた。
まるで死んでいるみたいにじっと気配を殺してワニは微動だにしなかった。
水面から出た鼻の穴から時折鼻息が洩れて、あ、やっぱり生きているんだ、と思った。
このエッセイを読んでそのことを思い出し、そして思った。
自分の心の中にもワニが棲んでいる、と。
自分なりにそれなりに一生懸命考えて、それなりに力を尽くしてやってきたことが、結果としてはあっちこっちからNOを突きつきられてしまうことがある。そんなときは大抵、やっている途中でそのことに対して「違うんじゃないか?」と指摘しなかった人たちも途端にみんな掌返したように「違うと思っていたんだよ」みたいな態度に変わって騒ぎ出す。
仕事は結果がすべてだから、周りがそういう態度をとることもわからないではない。
NOを突きつけられてしまった理由や、そこに至る自分の考えの浅さも、今は理解は出来る。
だから腹は立たない。そう、今回は自分が失敗したんだ、自分が浅かったんだ、受け入れよう、受け止めよう、、、。
そうやって前向きな態度を何とか保つ。
大丈夫、元気、へこんでない、誰がやってもこんな結果だったに違いない。
けど、そんな時、僕の心の中のワニが、ほんの少し身震いする。
フカミドリのコケに覆われたワニが、狭い水槽の中で身をよじる。
小さな水槽に押し込めたワニが。
アユタヤの町を想像して救われた気持ちになったのは、きっとそういうことだ。
いつの日か、このワニを広い湿原に解き放ってやりたい。
草むらの中を嬉々としてばしゃばしゃとはしゃぎまわるワニの姿を見てみたい。
いつの日か、このワニを。
でも、その日が来るまでは、僕は小さな水槽に押し込めたフカミドリのコケに覆われたワニと一緒に暮らしてゆくのだと思う。
音楽を聴いたり、本を読んでやったり、ワニに語りかけるようにだらだらと文章を書いたりしながら。
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そうですねぇ、ワニくん、早く自由に解き放ってあげたいですねぇ。
でも、僕は頑固で偏屈だから、重い石のようになったワニくんと一緒に暮らすのもそれはそれで悪くないんじゃないかとも思い始めています。
なにしろワニくんは、ブルースが大好きなようですから。