今晩から一週間、震災の被災地へボランティア活動に行ってきます。 善意ではない。 自分のために、行くのだ。 昔っから、「人のために」なんてことは大嫌いだった。 まず、自分にとってどうか、行動の基準はそれだ。 もちろん、何でもかんでも自分の好きなことを好き勝手にやればいい、ってことじゃない。 善意という言葉にかこつけて自分の都合を押し付けてくる人たちが嫌いなのだ。 一見「人のために」見える行動でも、それは「その人が喜んでくれることで自分が心地よい」からするのだと思う。 「東日本大震災の犠牲者を慰霊したい」と、こちらから陸前高田の松を使いたいと持ちかけておきながら、右往左往した末に被災地の方々の心を踏みにじった今年の五山送り火の騒動。 善意が無になった、なんて言い方をすればなんだかやむをえないみたいな感じがするけれど、結局のところは、ただのへたれのええかっこしいやんか。しょーもない。最初から危険予測もやりきる覚悟もなく、ただ「これって結構いいね。」なんて思いつきで着手して、ちょっと反対意見が出たらおろおろ。最初の中止で良識派ぶって反対した人たちだって、結局セシウムが検出されたらみんな納得したわけだから、「被災地のため」なんていいながら結局は「自分の安全ありき」だったことには変わりないわけで。 あれは本当に、京都に住む人間として恥ずかしい出来事だった。 ただでさえいいイメージのない京都人の腹の黒さを「やっぱりな。」と、全国に見せつけてしまった。 でも、ふと思う。 あれは京都だから起きたことか? 東京なら起きなかったのか?大阪では?広島では?札幌では? どこでだって誰だって「被災地のために」「がんばろう東北」なんて言いながら、所詮は「まずは自分の安全ありき」なんじゃないのか? いや、そのことを否定しているんじゃない。 そして、それは、生き物としてはまったく正しい行動だと思うのだ。 まったく正しい。 自分自身の安全を確保した上で、困っている方には手を差し伸べる。それは、人は結局のところ、人とのつながりの中でしか生きられないから。まわりまわればやっぱり「自分自身のため」なのだ。 だから、、、「人のために」なんて言い方で自分自身の浅ましさをごまかそうとするのはやめましょう。 「善意」なんて言葉を独り歩きさせるのはやめましょう。 誰でもみんな浅ましい。そのことを受け止めた上で、自分自身に余裕があって何か行動を起こしたいと思う人は起こせばいい。 「人のため」なんかじゃない、全部「自分のため」だ。 ふうーっ、これくらいかましておけば、自分自身、ビビらずに被災地へ向かえるだろう。 何かあまり気分の良くないことがあっても耐えることができるだろう。 淡々と、しっかり役割を果たしてきたいと思っています。 そのことが、結果的に被災地の方の何らかの手助けになったり、自分にとって何か感じ入ることがあれば、それでじゅうぶん。 Who's Next / The Who 不安もありつつ、えいやーっと覚悟決めるときのテーマ曲、THE WHO “
Won't Get Fooled Again ”。
不安定に無機質な音を繰り返すシンセサイザーのイントロがしばらく続いた後、不安をぶちやぶるようにガツーンと一発、ピート・タウンゼント。煽るキース・ムーン、不敵なJ.E、びびりながらそれをふりほどくように突っぱって見せるようなロジャー・ダルトリー。
Then I'll get on my knees and pray
We don't get fooled again
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無事、帰って来ました。
とてもひとことでは言えない、いろんなことを感じました。またおいおい報告したいと思いますが、ほんと行ってよかったです。