陸前高田の高田松原で、たった一本残った松の木が弱ってきている、と昨日の新聞の夕刊に記事があった。 あれから半年。 僕が見た陸前高田の浜は、あの場所に7万本もの木が立っていたとはとても信じられない、がらんとした海辺だった。 たった一本だけ残った松は『負けるなよ。あきらめるなよ。』と被災地に語りかける“復興の象徴”とされていた。けど、僕には、たったひとりぼっちで取り残されたとてもさみしい木であるようにも見えたんだ。 やっぱり、たった一本だけ残されても生きてはいけないよ。 仮設住宅でお会いした84歳のおばあちゃんは、「この仮設住宅の中に知り合いがいないからさみしい。」って言っていた。 ボランティアの報告会では、釜石地域を担当しておられる方が、「○○地域の仮設住宅で、一人暮らしの老人の自殺があった。」と悔しそうに話していた。 あれから半年。 復興にはまだまだ、気が遠くなるくらいの時間がかかる。 とても膨大な労力と費用がかかる。 もちろん、どんなに努力をしたところで失われたものがすべて戻ってくるわけではない。 失われたものはもはや失われてしまったのだ。 でも人は、たとえ衣・食・住がじゅうぶんに保障されたとしても、まっさらの場所でひとりぼっちでそうそう簡単に生きていけるわけではないのだ。 ちょっとしたことであっても、気軽に声を掛け合える横のつながり。 この土地で生まれたご先祖様から脈々と受け継いできた命を実感する縦のつながり。 社会とのつながりがあって初めて人は人らしい生活を営むことができるのだ。 仮設住宅への配達でお世話になったSさんは「冬になってもあのばぁさんたちには食料届けてやんなきゃなぁ。」と心配していた。 また遠野でお世話になったKさんは、「仮設住宅のコミュニティづくりのひとつとしてベンチを送りたい」と、個人で義援金を集めてベンチを送る活動に取り組んでおられた。 とても小さなことだけど、寄り添い続けている人たちがいる。 あれから半年。 もう半年、まだ半年。まだまだたった半年。 復興にはまだまだ、気が遠くなるくらいの時間がかかる。 「これから」の方がずっとずっと長いのだ。 せめて、今は希望がみたい。 松の木がたとえ枯れたってがっかりすることはない。 枯れそうなたった一本の木よりも、被災地にたくましく生い茂る雑草こそが、希望なのかもしれない。 どんな歌を歌っても、生きる力を歌ってくれているようなシンガー、綾戸智恵さん。 大好きなこのアルバム から、『どんなときも』 を。 今でこそそのおばちゃんキャラを全国にすっかり浸透させてしまった綾戸さんだが、CDを何枚か発売し「おもろいおばちゃんがおる」と話題になりだした頃は、音楽好きの間ではけっこう賛否が分かれていた。
「あんなもの、ジャズじゃない」
「音楽としての新しさがない」
「音程外しまくりで論外だ」
などなどの厳しい意見がいっぱいあったのだ。
あの人たちはきっと、知識を仕入れて頭でっかちになっていくうちに、音楽を音楽として聴く耳が腐ってしまっていたのだろう。音楽をココロで聴くことができなくなってしまったのだろう。
政治家なんて人たちも、最初は「社会のために」なんていいながら結局一番にそんな気持ちを忘れてしまうものなのかもしれないね。
誰でもそうなりやすいんだろうな。自戒も込めて。
蛇足だけれど、「社会とのつながりがあって初めて人は人らしい生活を営むことができる」ということも、快適とか効率とかいう数字で結果が現しやすいものの前に無視されてしまいそうになるから、よーく覚えておいた方がいい。
本文で少し触れた、遠野でお世話になったKさんのブログ をご紹介します。 次は、被災地に電気毛布を送る取り組みを検討しておられます。
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さっそくブログ拝見させていただきました。
ピアノ弾きなんですね!ブルースバンド、楽しそう!僕は楽器は全然ダメなので憧れます。
こちらこそ、今後ともよろしくお願います。
しかし、立派だなんてとんでもないです。3・11以降どうしてもシリアスになりがちではありますが、くだらないことも結構書いてますよ。
綾戸さんの音楽のように、感じたことを素直に言えればいいなぁ、って感じでいければいいなぁ、なんて思っています。