通勤で毎日乗る電車は、ベッドタウンをつなぎながら都市部に向かって大きな川に沿って走っていて、東側の席に座れば窓の向こうに幾度となく川や河原の土手が現れる。 その車窓から見える景色は、空が広くて、僕はけっこう気に入っている。 小春日和のうららかな陽射しの遅い午前中、遅出出勤なのにあくびをこらえきれずにぼんやりしていたときのことだ。停車駅が近づいて電車が減速を始めたその窓の向こうに、河原の土手で水色の一団がこちらに手を振っているのが見えた。 遠足なのだろうか?それともお散歩?水色のスモッグを着た20人程度の幼稚園くらいの小さな子どもたちが電車に向かって一斉に手を振っている。みんながみんな、からだいっぱいに、大きく大きく。一緒になって手を振る先生と思しきピンクのスモッグの女性。顔までは見えなかったけれど、子どもたちの仕草そのものが、キラキラと輝いた笑顔でなければ決してできないような喜びにあふれた仕草だったのだ。 その笑顔の仕草の後ろにはくっきりと済んだ青い空。 ほんの一瞬だったけれど、それは本当に、絵に描いたような幸せの光景だった。 なんていうんだろうか、世界中の全てのものを善きものとして受け入れるような気持ち。 あらゆる邪念や悪意などまるで存在しないかのように世界中の全てのものは善きものであると肯定してしまう無邪気な心。 僕が感じた“絵に描いたような幸せ”とはつまりそんなイメージ。 Memphis/忌野清志郎 “絵に描いたような幸せ”みたいな音楽ってどんなだろう、と考えてみてパッと思いついたのが、清志郎のこの『Memphis』。92年、RCを解散した清志郎がメンフィスへ出向き、憧れのブッカー・T&MG’sとレコーディングしたアルバムだ。
そのサウンドは60年代アトランティック/スタックスのR&Bそのまんまの、タイトでファンキーだけどどこかもっちゃりして人間味の滲み出るようなあたたかみのあるMG’s独特のあのサウンド。
そして、昔から憧れ続けたバンドをバックに歌う清志郎は、いつものようにつっぱったり毒づいたりはせず、ただもう“こんなバンドと一緒にできてうれしいんだ”という素直なリスペクトをからだ中で表現したかのように無邪気で活き活きとして、まるで「どうだ、このサウンドは!」といわんばかりに誇らし気だ。s
“BOYS”や“MTN”なんていうノリノリのジャンプナンバーや“僕の目は猫の目”“ラッキーボーイ”みたいな無邪気な曲だけではなく、“世間知らず”や“ママ・プリーズ・カムバック”みたいなヘヴィなテーマの曲ですら、どこかうれしさを隠せないようなハッピーなエーテルが充満しているように僕には聴こえてくるのだ。
幸せな光景は、それだけで心を和ませ、活力を与えてくれる。
ただし、本人たちはそのことを意図していないことが重要だ。誰かに幸せを分け与えてあげたい、などとどこかに意図されたものはもうそれだけでもう充分にくどく、うっとうしく、時には暴力的にすらなってしまうものだ。
ただもう本人たちが心の底から楽しんでいること、それだけが幸せの光景になり得る。
だとすれば、もう、誰がなんと言おうと、何がどうであれ、自分が楽しいと思えることをちゃんと楽しんでやる、それ以外に幸せになる方法なんて何もないじゃないか、と思うのだ。
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