乾いた唄は魚の餌にちょうどいい 森山直太朗
卒業式シーズン。卒業式自体に大した想い出はない。卒業式に歌った歌も何だったか覚えていない。中学・高校ともに学校なんてさっさと出て行きたい場所だったし、卒業とともに二度と会う機会のない友達なんて所詮その程度に付き合いだったわけだし。むしろ悲しいのは、卒業して数ヶ月やりとりがあっても、新しい環境になじんだ途端に音信不通になっていく人たち。かけがえないと思っていた付き合いが実は代替可能だったことを、音信不通になってから思い知らされることになる。
すっかり卒業式スタンダードになった森山直太朗の「さくら」。今年もあちこちで歌われたのだろう。この人のイメージはこの曲に象徴される透き通るようなハイトーン・ボイスと、いまどき珍しい少し古風なくらいの全うな感傷だと思う。その「さくら」が入ったアルバムにもう一曲、別れがテーマの「いつかさらばさ」という曲が入っていた
もしも君が心なき言葉に傷ついたとしても
僕に出来ることといえばそれを茶化してやる程度
特に気の効いたセリフの持ち合わせなんてないけど
時間の許す限り君の横でおちゃらけていたいよ
そうさ これが僕のすべてさ
どうせいつかはさらばさ
僕が君について知っているここと言ったら
君が紅茶に砂糖を三つ入れるってことだけさ
こんな言い方じゃ誤解を招くかもしれないけれど
他人が二人でいるにはそれくらいがちょうどいいんだ
そうさ 合言葉はいつでも
どうせいつかはさらばさ
どこにでも転がっているよな形のない幸せの中で
たまに思う 僕はこの先何処へ行くのだろう
それはそうと今夜は月がキレイ
ねぇ、どうせいつかはさらばさ
「いつかさらばさ」って捨て台詞は、若気の至りでとっても使いたくなる言葉だ。絶望的・享楽的なニュアンスに若者は惹かれやすいのだ。僕も、20歳代前半は「どうせいつかはさらばさ」という少し投げやりな、だからこそ今がすべて、今この瞬間を楽しく過ごせればいい、みたいな気持ちで、半ばやぶれかぶれに、その場しのぎ的に生きてきた。そんな、何者からも一見自由な気分が心地よかった。
けど、表層的なニヒルさとは裏腹に、この歌の底に流れるのは、目の前の相手を失いたくない愛おしい気持ち。
「いつかさらば」するからこそ、目の前にある対象を愛おしく思う気持ち。
本当に分かり合えることなんてないことを理解した上でだからこそ分かり合いたいという気持ち。
アキラメの向こうの希望、というか、自分の人生のサイズを知った上での、自分なりのサイズの夢。
「いつかさらばさ」なんて格好つけた言葉は、実は照れ隠しのポーズなんじゃないか?
直太朗氏はこの歌を必ずコンサートで歌っているらしい。これからも歌い続けていくのならば、この歌のトーンは、どんどん優しくなっていくのではないか、と思う。
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