明け方、ハタと目が覚めた。まだ外は暗く、冷たい空気がピーンと張りつめている。 どこかザワザワと胸騒ぎがする気がして、それから寝室で眠っている子どもの顔を見てほっとした。 ゆうべ、ニュース番組で、阪神淡路大震災の映像を見たせいに違いない。 あの年も、今年みたいに、きりっと冷え込んだ冬だった。 僕は今の会社に勤め始めたばかりで、京都市内に住んでいた。 突然下からドーンと突き上げられるような衝撃があって目が覚めた。 まさか地震だとは思わなかった。 そのあとすぐにブルブルブルと揺れがやってきた。普通だったらせいぜい十秒くらいで収まるのに、まったくそんな気配がなく、家具(といってもまだ一人暮らしでたいした家具もなかったが)がガタガタ言い出した。え、これはやばいんじゃない、と思ったもののどうすることもできず、棚からCDやカセットテープがドサドサと落ちた。 しばらくして揺れは収まった。 テレビをつけたら地震速報、京都震度6。 ひえー、でっかい地震だったぁ、こんなの初めてだ。 時計は6時前、出勤まではまだ一時間近くもある。 テレビを消して少しうとうとした。 母親から電話があった。テレビで京都の震度が大きかったので心配した、と。 「いやー、すごい揺れたけど、何も問題ないで。」 その地震の大きさを実感したのは、駅についてからだった。 電車が動かない。たくさんの人が公衆電話の順番待ちをしている。 あらら、困ったな。 しばらくして運行は再開し、30分近く遅刻して仕事場に着いた。 まだ出勤できていない人もいるみたいで配送の現場はかなり混乱していたものの僕はまだそのとき何の責任もない一担当者だったから、上司に指示されるまま自分の配送先へ向かった。 行く先々で「すごい地震だったねぇ。」なんて会話があったけれど、それ以外はまるでいつもの火曜日だった。 神戸があんなことになっていたなんて、昼休みで一旦帰社するまで知らなかった。 みんな食堂でテレビに群がっていた。 そこには、延々と倒壊した高速道路や、あちこちからあがる火の手、崩れかけたマンション。 誰も見たことのない、想像を絶する光景だった。 次の週くらいの日曜日、僕らは会社からの要請で神戸の倒壊した店舗の片付けの支援に入った。 電車はまだ阪神の青木までしか復旧していなかったから、青木から住吉まで一時間くらい歩いて現地に入った。 ぼこっと不自然に盛り上がり亀裂が入ったアスファルト、ところどころの家屋に張られたブルーシート。 まるで車どおりのない大通り(交通規制がされていたし、そもそも道路が陥没してまともに走れないのだ)、壁に大きなヒビが入ったマンション。 街に人の気配はほとんどなかった。 薄暗い店舗の中はいろんなものが散乱し放題に散らかっていた。僕らは淡々と指示されたとおりに、要るものと要らないものを仕分けし、ガラクタを片付け、日が暮れる前にまた一時間歩いて青木まで戻った。 僕が見たのは、たったそれだけだ。 たくさんの悲しい話を聞いた。 そのひとつひとつを聞くたびに、僕には耐えられないと思う。 僕はただの傍観者で、あの日あの街にいた人たちに、言えることなど何もない。 そんな僕ですら、あの日のドーンという衝撃はいまだに体が覚えていて、ふとした瞬間に思い出して恐怖してしまうのだ。 どうか、悲しいことが起こりませんように。 ただそう願うばかりだ。 自分が恵まれて生きていることに傲慢になりそうになったら、あの日のことを思い出してみようと思った。満月の夕 風が吹く港の方から 焼け跡を包むようにおどす風 悲しくて全てを笑う 乾く冬の夕 1995 / HEATWAVE 満月の夕。ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とHEATWAVEの山口洋の共作で、それぞれが自分のバンドで演奏しているが、そのテンポや歌い方はまるで違っていて、実は歌詞も少し違う。
焼け跡に立って被災者とともに歌い踊ったソウル・フラワーのバージョンよりもHEATWAVEのバージョンの方が、傍観者の僕には相応しい。
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ほんとに目を覆いたくなるような、耳を塞ぎたくなるような、悲しい話辛い話がたくさんありました。思い出すだけでも泣きそうになってしまいます。
もしものためにしていることは、寝室には大きな家具を置かないこと、スリッパを枕元に置いておくことくらいですが、ほんと二度と起きてほしくありませんよね・・・。