その昔、中学生の頃、いや、高校一年だったか、「三浦綾子の『塩狩峠』を読んで感想文を書け」などいう宿題を出した国語の教師がいた。今思えばその教師は、思想的に何処か偏っていたような気もするのだが、休み明けに提出されたクラス全員の感想文を冊子にしてクラスのみんなに配布したのだった。 その感想文に書かれていたのは、よくもまぁお前がこんなことを、と思うようなことばかりで、まぁ実際僕もそのときは、主人公の自己犠牲をいとわぬ行動に感動したのだが、その感動と絶賛だらけのクラスメイトの感想文を読んで、なんだかとても気色悪い気がした。何か違うんじゃないの?って。絶対的な善を強要することは善なのか?誰かが感動するのは勝手だけど「これに感動しなければならない」を押し付けられるのは違うんじゃないか? 一度そう思うと、感動したはずの物語もなんだかとても偽善者くさい説教じみたものに思えてしまって、そんなことがあって以来、どうも○井○子とか○野○子なんていう平凡な名前のおばさんの書くようなものは全部、説教じみたものばかりに違いないと決め付けてかかっていたから、佐野洋子さんの本なんて今まで手にとってみようとも思わなかったのだ。 ふつうがえらい / 佐野 洋子 年末に本屋へ行ったら一角に「佐野洋子フェア」なんてコーナーができていて、あぁそういえばと小さな囲みの新聞記事を思い出した。亡くなったんだっけ。だってもうけっこうなおばさんだったんでしょ。誰か死んだらこうやって商売するんだよなぁ、がめついもんだ。そういや『100万回生きたねこ』だったっけ、あれは読んだことがあったな、なんだかよくわからなかったけど…なんて思いつつパラパラ。
お、おもしろい。
こんなに素敵な人だったのか。
書かれているのは、とても日常的なたわいもないおしゃべりのような短いエッセイ。
これがとんでもなくおもしろい。
『私は学齢前に九九を諳んじていた利発な子供だった。両親はもしかしたら頭のいい子を産み落としたと疑ったかもしれない。
算数など苦にも思ったことがなかった。
ある日、世界は崩壊した。中学に入り数学の時間に、XイコールYと教師は黒板に書いて、斜めの線を一本引っ張ったのである。XはYである。これは何であるか。XはXで、YはYではないか。私はこれを受け入れることは出来なかった。XイコールYを受け入れなくなると、利発な子供であったころの2たす3も受け入れなくなってしまったのである。
(中略)は、は、は、世の中計算どおりにはいかないのよ、とかつての馬鹿はみかんをほおばるのである。みかんはみかんじゃないか。これをいくら分析して、ビタミンや糖分や水分を計算しても一個のみかんに迫ることは出来ない。この匂い、口の中にひろがる甘さとすっぱさ。あ、あ、あ、しるがたれちゃった。
メロンが6個あります。弟に3個上げました。いくつになったでしょう。答えは5個である。誰がメロンを3個も人にくれてやるか。
XイコールY、冗談じゃない。私はあなたである。ということはないのだ。』
『私は、他人に関して言えば、確信に満ちている人が、一番嫌いである。確信に満ちている人と話をすることくらい、退屈であほらしい事ない。好きにすれば、あんたの思うようにやればいい。確信に満ちている人は、確信しているもの以外のことを吟味したり迷ったりすると、困るらしいのである。
(中略)しかし私はとんでもないものが、とんでもない時に、にょろりか、ぽとんか、ガラガラとか、ドカンとか出て来なかったら生きているのつまらない。本当につまんないと私は思う。』
佐野洋子さんは、思ったことを思ったとおりにばさばさ書いてゆく。そのばさばさがとても気持ちいい。
私ってほんと馬鹿、とさばさばと失敗談をおしゃべりし、ほんの些細な日常の出来事に落ち込んだり感動したりはげまされたり考え込んだり反省したり馬鹿じゃないのと毒づいたりまぁいいやとケラケラ笑ったり、ぬけぬけと愛する男とのことをのろけたり。とっても強気でとってもさみしがりで、とってもやんちゃでとっても真面目で、喜んだり哀しんだりウキウキしたりへこんだりのその全部が、なんだかとてもかわいらしいというか、とても愛おしく感じられてくる。素敵だなぁ、かっこいいなぁ、と思う。
それは、つまるところ、誰にも媚びずに自分のココロの内側から湧いて出てくるものに素直に生きている素敵さなのだと思う。いや、そこまでいうとすでに肩肘張りすぎて既にウソっぽいな。
もっとナチュラルに、元々生き物として誰でも普通に持っているものに素直に生きていている、という素敵さ。つまりは「ふつうがえらい」ってこと。
どんな意見や感想を言ったって説教じみないのがいい。教訓めかない、まして押し付けたりしない。人生の一大事を他人事みたいに笑える姿勢、達観したいけどしきれないからそれでいいのよ、みたいなサバサバした感じ、それも坊主の説教みたいじゃなく、香りも色艶もある。
こんな人が身近にいたら、きっと最初はめんどくさくてうっとおしくて、でも気持ちが通じ合えばきっと大好きになって振り回されちゃいそうだな、なんて思ったりする。
佐野さんが今も生きていたら、今世間を賑わせてる「伊達直人現象」なんてどう書くのかな。
ああいうことが現象的に広がっていくのは、みんなさみしいからなんだと思う。けど、「世の中捨てたモンじゃない。」とかっていうのはちょっと違うんじゃない。ああいうことは、身近に親切にする人や愛情を注ぐ人がいないからやりたくなるのである。さみしい人が勝手に自分の満足でやってるんだからそれはそれでいいけれど、「私は善行をした」なんて思っている人がいたとしたら、思いあがりも甚だしい。私ならあんなことはしない。自分の大好きな人にだけいっぱいの愛情を注ぐ。そのほうが何十倍も楽しい。
…なんて言ってくれそうな気がするのだけれど(笑)。
最後にもうひとつ、佐野さんの文章から引用を。
『世界中の人間から嫌な奴だと思われていても、いいもん、私これでいいんだからね、と男も女も全部思えたら、世界は平和になるわね。でもそんな風に神様は人間を作らなかったみたいだから、ちっとも平和じゃない。平和じゃないからドラマがある。ドラマがあるから、みんな苦労しちゃって、大変よね。』
ふふふ、そう、そう。だから人生はおもしろい、とまではよう言わないけれど、そーゆーもんだからやっぱりこれでいいんだよ。
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ホームでしか戦わない人、そうですね。しかも、守りをがちがちに固めた、リスクを負わない戦い方をする人。まぁ、それはそれでその人が勝手にやってりゃいいんだろうけど、その確信をおしつけられた日にゃぁメイワク甚だしい。
「確信に満ちた人になりたくない」ということだけは確信を持って言えます。え、でもそれって確信を持っているっていうこと?なかなか難しいもんですね(笑)。