寒い冬の休日は、家にこもっているに限る。僕は出不精なのだ。 コタツにもぐりこんでだらだらと読書。それはそれでとてもシアワセなひとときだ。 本を読んでいて、とても楽しく読み終わったのにもかかわらず、本を閉じた瞬間にどんなことがかかれてあったのかまるで覚えていないことがままある。 確かに「この本おもしろかった!」という印象だけはリアルに残っている、でも内容は覚えていない。 老化?痴呆?そうかもしれない(笑)。 そうかもしれないけど、それだけでもない。 多分そういうとき、僕は、本に書かれてある中身の意味するもの以上に、その文章の文体を楽しんでいるのだと思う。ウォークマンで音楽を流し聴くのや、カーステレオで小さくCDをかけるのとと同じような感覚、という感じだろうか。音楽を聴くように、文章のもつリズムや言葉のリズムの持つ心地よさを楽む、という感じ? ある種の小説やエッセイは、音楽ととてもよく似ている。 文章や言葉のリズムがとても気持ちいい本は、読み終えるのが惜しくなる。 わりと多くの人がそうなのかもしれないけれど、僕はそうやってひとつの本を読み終わるまでにあっちこっちの本をとっかえひっかえすることがけっこうあって、町田康さんと佐野洋子さんにはまりながら、そんな風に読んでいたのは吉田篤弘さんのこの連作短編集。 この3人を交互に読むというのは、オーネット・コールマンとエラ・フィッツジェラルドとモダン・ジャズ・カルテットを(もしくはパブリック・イメージ・リミテッドと綾戸智恵とジャック・ジョンソンを)交互に聴くようなものだけど、実際それはそれで自分なりのバランスはちゃんと保たれていたりするのである(笑)。 フィンガーボウルの話のつづき / 吉田 篤弘 吉田篤弘さんは、クラフト・エヴィング商会という名義でとても洒落た本を出していた夫婦の一人。
物語は、世界の果てにあるような食堂の主人の話で始まるが、それはそんな物語を書きたいと願いつつその物語のしっぽをなかなかつかまえられないでいる作家の吉田さんが書いたイントロダクションであり…といった不思議な入れ子構造になりながら16+1の短編が連なっていく。
横浜に住むゴンベン先生、謎めいた伝説の小説家ジュールズ・バーン、シシリアン・ソルトを販売するバディ・ホリー商会の十文字氏、レインコート博物館に勤めるFBやRW、6月の月放送局というラジオ局を一人で気まぐれに運営する孤島に住む女性、著名なクラシック音楽家であるキリントン先生、雑誌や写真集の余白に詩を書き込んでしまう白鯨詩人、予告編だけを作る映画監督になりたいと願う学生時代の友人“ろくろく”、学級閉鎖の休みにちょっとした体験を共有した梶君。…そんな興味深い人々が登場するそれらのバラバラの物語をつなぐように絡んでくる、ビートルズの「ホワイト・アルバム」。
この不思議な小説は、あのアルバムのように(この本で出てきた表現を借りれば「サーフィンからアバンギャルドまで」、みたいな)がらくた箱をひっくり返したみたいに、賑やかだったりシリアスだったりしっとりしたりコミカルだったり、いろんなリズムやいろんな色調があって長さもバラバラ。あっちへこっちへととっちらかっている。けど、最後にはすっきりとしたひとつの物語としての印象が強く残る、という仕掛け。
或いはこの本。
それからはスープのことばかり考えて暮らした / 吉田 篤弘 ある町に越してきた無職の僕。気のいい大家のマダム。サンドイッチ店「トロア」を経営する安藤さん(アン、ドウ、なので「トロア」だそうだ…)、その息子リツ君。
登場人物がすべて善人で、悪いことなどひとつも起こらない夢のような物語。
吉田篤弘さんの小説に対して、イメージだけで人物の細かい機微が少しも描かれていない、とか、読後感はさわやかだがそれ以上でもそれ以下でもないうすっぺらいおとぎ話だ、ありえないファンタジーだ、と切り捨てることは簡単だ。けど、その批判はあまりに文芸批評的に過ぎるのかもしれない。
そもそも作者は元々そういうことははなっから目指していないのではないか、という気もする。
作者が細心の注意を払っているのはむしろ、全体の世界をどう響かせるか、だ。
言葉からできあがったひとつの世界が、まるで音楽のように聴こえてくること。
言葉を組み立てて音楽のように奏でること。
文章で美しい世界を創ること。
そのことにのみ心を砕いているように僕には見えるし、実際その試みは成功している。
うすっぺらいおとぎ話に過ぎないとしても、僕は引き込まれてしまった。
読み終わった後は、さっき見ていたシアワセな夢の中身を現実の言葉で伝えられないようなもどかしさで一杯にながらもどこかとても満ち足りた気分がしたのだ。
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