先日のカラオケボックスでの話の続き、というかそのときの出来事。 明け方5時過ぎ、朦朧とした気分でボックスを出てカウンターで精算を終えたときのことだ。 多分僕が最後の客だったのだろう。従業員が7、8名、おそらく全員だな、出てきてカウンターの奥にずらっと並んでエレベーターを待つ僕に大きな声で「ありがとうございましたっ!」と礼をした。 …恥ずかしいやらかっこ悪いやら。こっちは終電逃してカラオケボックスで始発を待ったしょーもない酔っぱらい。お願いだからそっとしておいてくれ。 お客様を全員で大きな声で見送る、というのがそのお店のマニュアルなんだろう。でもね、全然うれしくない、てか、勘弁してほしい。 マニュアルどおりのサービスを受けて不愉快になることすらあれど、ココロが動かされることなどまるでないのだから。 マニュアルさえ守っておけば大丈夫、ってことなんだろ。仕事なんて嫌なことだらけだけど、マニュアルどおりにやっておけばどんな嫌なことがあったって本当の自分自身は傷つかないって算段なんだろ。けど、マニュアルどおりってのは時にはとても暴力的ですらあるんだぜ。 などと、そんな程度のことでくだらない文句をぶつくさ並べている僕の方こそが、本当は社会生活には不適格な偏屈者なんだろう。 まぁやむをえない。 そんな偏屈な僕が偏愛してしまうのはやはり少し偏屈な音楽であることが多く、ここ数日どっぷりはまっているのがこのローランド・カークの“Volunteered Slavery”ってアルバム。 Volunteered Slavery / Roland Kirk ローランド・カークは、盲目のミュージシャン。一度に3本ものサックスを同時に吹いたり、鼻でフルートを演奏したり、晩年には脳卒中で半身不随になりながらも楽器を改造して演奏活動を続けたり、といった怪人的なエピソードばかりが一人歩きして、昔は「グロテスク・ジャズ」なんて言葉でカテゴライズされて、ジャズ界ではずっと異端児扱いされていたそうだ。
さにあらん。
ジャズに“お洒落”なんて幻想を持っている人はまず受け付けない音だと思う。
演奏の途中で叫ぶわわめくわ合いの手は入れるわホイッスルは吹くわ、その音色はお世辞にも美しくはない。
ジャズは4ビートでなきゃ、とかいう人にも向いていない。
ジャズはテクニックだ、という人にも向いていない。
リズムはR&Bっぽい8や16もあれば、フリージャズのようなどたばたのリズムのあればで、泥臭くバタ臭く、各演奏者のテクニックだって洗練されているとは言い難い。
そして、ジャズは哲学だ、みたいにしかめっ面をした人にも向いていない。
なぜならこのアルバム、とてつもなく楽しいのだ。
そう、とにかく楽しい。
聴いていて、とてもウキウキしてくる。
といってもポップ・チューンが満載、というわけでもない。
ポップ・ミュージックの、パッと聴いてすぐに楽しめる感じの楽しさとは少し違う気がする。
この楽しさは、そうだなぁ、魂の開放感、とでも言えばいいのか。
上手に演奏しようとか、「○○らしく」とかそんなことは一切考えないで、魂の赴くままにココロを解放させて、好きなことを好きなようにやっている、演奏している本人達がとても満足しながら演奏している、そのことがとてもよく伝わってきて、なんだか楽しくなってしまうのだ。しかも、かっこつけた上っ面だけじゃない、ため息も鼻息もよだれもうめき声も喘ぎ声もぜんぶぶっこみでさらけ出しまくる。生きてるって不細工やけどしゃーないわなぁ、とさらけ出すそのさらけ出し方が、芸の域にまで達している。だから、聴いているこちらの魂もどんどんさらけ出されて解放されてゆくのだ。
偏屈な男が偏屈なりに偏屈の純粋を貫いた音楽。
マニュアルどおりじゃもはや誰も感動しない。
中途半端に体裁だけ整えたものよりも、偏屈を貫いた表現のほうがココロを揺さぶることができる。
それは、人が人として人らしくあろうとするエネルギーの照射故のことだ。
そして、なんだかんだいってもやっぱり結局のところ、人としての感動を僕らは求めているのだ。
メリー・クリスマス。
ロマンチックなクリスマスやセンチメンタルなクリスマスもいいけれど、クリスマスはそもそも冬至明けのお祭。農耕民にとってとっても大切なお日様が、この日を境に、力強く甦ってゆく。
にぎやかで楽しく生命力溢れる音楽で、魂の解放を。
Roland Kirk - Spirits Up Above Roland Kirk - I Say A Little Prayer
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