ずいぶん寒さが厳しくなってきた。 風が突き刺さるように冷たい。 本格的に冬だ。 秋が深まりだんだんと冬に向かっていく日々はなんだか気分もどんよりして閉じた感じになりがちなのだけれど、いざ冬になってしまったなら、もうさみしいなんて言ってはいられない。 切り刻むような風、くじけてしまったら凍え死んでしまう。 だったら、背筋をシャキッと伸ばして、立ち向かっていくしかないじゃないか。 キリッとシャキッと。 それは多少エネルギーのいることではあるけれど、だんだんと下り坂を降りていくような秋の終わりから冬のはじまりにかけてのどんより感よりは遥かに好ましい感情だと思う。 ハードな音楽が聴きたいと思った。 冬の海のように荒々しく、鋼鉄の塊みたいに重く、かみそりみたいにシャープで、しかし頭はとてもクールで冴えている、そんな音楽。 そんな音楽なんて果たしてあるのだろうか、と、自分の頭の中でかすかに鳴っている音像を便りにCD棚をごそごそ。 あ、あった。 THE WHO。 「四重人格」。 これだ。 Quadrophenia / The Who 冷たい冬の風が容赦なく吹いて嵐になりそうな海の音。
遠い叫び。
そこへ、ガツーンとシャープなピート・タウンゼントのギターがかき鳴らされて、ジョン・エントウィスルのベースがゴツゴツッとせりあがってくるオープニング、めちゃくちゃかっこいい。
そしてドカドカと叩きまくるキース・ムーン。切り裂くようなロジャー・ダルトリーのシャウト。
頭の中、真っ白になる。
そういや昔見た『さらば青春の光』って、この曲をバックにジミーがべスパをぶっとばしてくるシーンから始まるんだったっけ…
(Youtubeにて映像発見) 。
初めてこの映画を見たのは学生の頃、京都・木屋町のロック喫茶だった。
当時はまだビデオ・デッキもソフトも貧乏学生が所有できるようなものではなかったのだ…。「ぴあ」を見て上映時間にロック喫茶へ行くと何人か似たような客がいておもむろに上映が始まった…今や紀元前みたいな気分さえするけれど。
正直ピンと来なかった。よくわからなかった。THE WHOの音楽も、確かにかっこいいっちゃぁかっこいいのだろうけれどイマイチ「おおぉおおっ!」というカタルシスも無くどこかピンと来ないものに思えた。その頃は、ハードロックやらパンクやら、もっと直情的に盛り上がってガツーンと一撃を食らわせてくれるものが自分にとっては最高だったのだ。
そして今でも、THE WHOが何を表現しようとしていたのかを理解できたとは思えない。
ただ何となくわかってきたのは、世界はTHE WHOの音楽のように多面的で複合的で抽象的である、ということ。
わかりやすい音楽はある種の風景画のように、世界のある場所のある瞬間の風景を実に見事に切り取って描いている。その風景が美しいにしろ、見るに耐えないようなえげつないものであるにしろ何らかの共感を呼び起こしてくれる。
THE WHOの音楽が見せてくれる景色はわかりやすいひとつの風景ではなく、もっと抽象的かつ混沌としていて相反するもの相容れそうにないものがひとつの画面にあっちこっちに散りばめられている感じがするのだ。愛も憎しみも高尚も低俗も道徳も不道徳も希望も絶望も全部、しかもそれは裏表や左右の対になる関係性ではなく、地続きの同じ場所で入り混じって見る角度によっていかようにも見えるようにして存在している。
そして、世の中のあらゆるものは同じ地続きの場所で入り混じって、見る角度によっていかようにも見えるようにして存在している。
そんな風に思うようになってからTHE WHOの音楽がとても好きになった。
THE WHOの音楽を楽しむためには、ひとつだけ守らなければいけないことがある。
それは、大音量で聴くこと。
小さな音量ではTHE WHOのかっこよさは決して感じることはできないのだ。
風が突き刺さるように冷たい夜に、大音量でTHE WHOをぶっぱなす。
THE WHOの音楽は、寒さをぶっとばしてくれるわけではないし暖めてもくれない。
ただ、自分自身が今、冷たい夜の中にいるということを感じさせてくれる。
そのことは、シビアではあるけれど悪い気分ではなく、むしろ好ましい感情である気さえする。
「ロックンロールは我々を苦悩から逃避させるものではない。悩みつつ、踊らせてくれるのだ」
byピート・タウンゼント
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どんなこと書いたのか本人はろくに覚えていないものですが、何か心にしみるものがあるとすれば、それは音楽の力だと思います。