フォーマルな場所、フォーマルな態度、というのがどうも苦手だ。 もう40も半ばになるのに、いまだに名刺交換だとか儀式的なものが煩わしくて仕方がないし、ごにょごにょ口ごもってしまってなんともきちっとできない。 考えてみれば、大人になればきっと当たり前にするんだろうなぁ、なんて漠然と想像していたことをなにひとつやったことがない。 例えば、接待ゴルフや接待マージャン。 上司に連れられてのお説教飲み、或いは逆に部下を連れてのそれ。 義理のお父さんと酒を飲む、とか、親戚との儀礼的なおつきあい。 世話になった人への中元・歳暮。 べっぴんのママのいるスナックや水商売のお姉ちゃんのいるお店で飲むこともないし、回らない寿司屋や天ぷら屋やお座敷のある割烹にも行ったことがないし、ホテルのラウンジで打ち合わせもしたことないし、高級ディナーで結婚記念日を祝ったこともないし、記念日に気の利いたプレゼントをしたこともない。お葬式に行っても名刺交換と同じくごにょごにょで済ませてしまう。 大人になっていっぱしの社会人になったらあんなこともこんなこともするんだろう、ということ自体がドラマや映画で見たただの思い込みなのだろうか。 フォーマルなことだけじゃない。毎日の暮らしでもそうだ。 40になっても学生の頃と同じく、ヒマになって出かけていく先は本屋とCD屋。喫茶店すら行きもせずコンビニや自販機で缶コーヒー買って飲んでいる。お酒を飲むのも居酒屋チェーン店。たまに外で飯食っても王将か吉野家か大手外食チェーン程度。 みんなそんなものなのかなぁ。 おとなの味 / 平松 洋子漠然とそんなことを思ったのは、この本を読んだせい。
「おとなの味」。
平松洋子さんの食べ物と暮らしにまつわる文章は、文章のひとつひとつが、吟味された素材を使って手間を厭わずとても丁寧に調理されたお料理みたい。いっぺんに読んでおなかいっぱいになってしまうのがもったいなくて毎日少しずつ味わいながら読んだ。
なんといえばいいだろうか、とても上品で芳しい、豊かで艶やかな文章なのだ。
『おとなになってよかったことはなんですか』 そう聞かれたら、ひそやかに指を折るだいじなことはいくつかあるけれど、おおきな声で勢いこんで返事をするなら、これだ。 『鮎のおいしさを知ったこと』 鮎は刻々と味わいを変える。たとえば夏の盛り、むっちり育った鮎の塩焼きにかぶりつく。青々とした苔の香り。引き締まった身のうまみ。ほのかな苦味。骨の歯ごたえ。清流の水しぶきがぴちぴち踊る。ところが、晩夏から秋、子を持って身の痩せた落ち鮎のしみじみと鄙びた味わいはどうだろう。 とまあそんなふうに、春から夏、夏から秋、季節と味を重ね合わせられるのが、大人になったよろこびと思いたい。 或いはこんな文章。
なんだかみみっちくて、きらいだった。湯呑みのなかに梅干を落とすところからして、とても上等とはいえないんじゃないか。そもそも上等の基準などわかりもしなかったが、ようするに堂々とひとさまのまえでおこなう行為ではないように思われたのだ。 けれど、くやしくもあった。梅干番茶を啜るときのおとなは、どうしてあんなに満ち足りた顔をしているんだろう。ただの番茶や煎茶を飲んでいるときより、ずっとじんわりした顔になる。「はうう」とも「あうう」ともつかない声を出して白くて長い息といっしょに吐き、肩のあたりはいつもよりずっとやわらかなまるみを帯びている。上等ではないことをしているとき、おとなはしあわせになるのだ。 上品なだけではない、若い頃にはずいぶんやんちゃもしていろんなところを飛び回っていろんな人間を見てきたのだろうと思わされる、奥行きの深さ。茶道や華道の教室に通っているの花嫁修業中の娘のような教え込まれた上品さではない、嬉しいこと悲しいこと様々な経験の中で得たのであろう、簡単に言ってしまえば生きることへの肯定があるからこその慈しみのようなものを含んだ上品さ。いや、慈しみとまで言っちゃうと抹香臭いな。もっと艶やかで官能的ですらあり、とても香ばしい。
大人ってのはこうでなくっちゃなぁ…と…しみじみと感じて、さて。
うーむ。
相変わらず居酒屋で真っ先にフライドポテトと焼きそばを注文してしまう僕たちは、果たして大人になることができるのだろうか???それとも僕たちの世代は、大人になるための何か大事なものを授かることができないままこれからもずっとこんなふうなのだろうか???
確かに敢えて大人にならないでいようとしてきたということはある。
形式やら儀礼やら伝統やらしがらみやらを否定することが肯定されている時代に育ったのだとは思う。
でも、そのことと、人生の豊かさ、奥深さを味わうことができないこととは違うはずなのだ。
先日、新商品だというお茶を淹れて飲んでみたら全然美味しくなくて「こんなもんかなぁ。」なんて言っていたら年上のパートさんに「どうやって淹れたの?」と聞かれ、やったようにやって見せたら「お茶は熱湯で淹れるものではないのよ。」と。彼女がお湯を少し冷まししてからゆったりと注いだお茶は、先ほどの葉っぱと同じものとは思えないほど香り豊かだった。
僕が知りたいのは、例えばそんなことだ。
そのわずかの蒸らし時間の中に漂う芳香で濃密で優雅な時間。
僕らはそんな優雅さやそのひと手間の中にある官能を知らないままいつの間にか歳を重ねてしまったような気がする。
もちろんそんなことにはお構いなしでも何不自由なくこれからも生きていける。
でも、それはなんだか豊かじゃない。
そこにはきっととても大切な何かがあるんじゃないかと思うのだ。
まだ残り40年はある。今からでも少しずつ大人の豊かさ、大人の愉しみを身につけていきたいものだなぁ…なんて思いながら、わずか何分かの電子レンジの時間にさえいらつき、手間を惜しんで自販機で缶コーヒーを買ってしまう僕。
あぁ、優雅な大人への道は遠いのかなぁ。
スポンサーサイト
http://goldenblue67.blog106.fc2.com/tb.php/241-a5b65359
トラックバック
そうですね、雑誌に連載されていたもののようです。僕は読んでいなかったですが。単行本にも味わいのある写真が載っていました。
無理して大人ぶろうとは思わないのですが(どうせボロが出るから…苦笑)、大人しか味わえない密かでささやかな愉しみ、みたいなものを知らないままではもったいないかなぁ、っていう気分です。まぁ、ぼちぼちと。