先日、仕事帰りにふらっとレンタルCD屋に寄ったら、Superflyのニュー・アルバム がかかっていた。正式にはシングルらしいが、2枚目のディスクに70年代ロックのカバー曲がずらりと入っている。お得意のジャニスやキャロル・キングのほか、ストーンズの“Honky Tonk Women”やらイーグルスの“Desperado”、それに知らない曲もたくさん。かっこいいな、とは思ったけれど、どうせ聴くのなら原曲の方を聴きたい、と思ってしまった。 どんな文化も、草創期から隆盛期を経てだんだんと細分化を繰り返しながら成熟期を迎え、やがてスピリットは置き去りにされスタイルの形骸化が始まり、やがて伝統芸能化して衰退していく。そういう意味では、あの手のスタイルのロックの隆盛期はやはり70年代であり、Superflyのやっていることを決して否定するわけではないけれど、肯定的な意味を含めてもやはりとても伝統芸能的だと思うのだ。もちろん、伝統芸能を伝統芸能としてきっちり守っていくことにじゅうぶんな意味はあるし、伝統芸能を伝統芸能として楽しむ楽しみ方も知っている。 ただ僕は、伝統芸能的になってしまったものよりも、それがほんとうにスリリングで勢いがあった時代のもののほうが聴いていて伝わってくる何かが違う、と感じてしまうので、どうせなら原曲が聴きたいと思ってしまう。 そうやってつい、新しいものよりも古い音楽を選んでしまうというわけだ。 前置きが長くなったが、そんなわけで今日聴いていたのはカウント・ベイシー楽団。 禁酒法の無法地帯だったカンザス・シティで鍛えられた腕利きのミュージシャン達が、ニューヨークに拠点を移したばかりの1937年から39年のごく初期の録音。 The Best Of Early Basie / Count Basie これ、ほんとかっこいいんですよ。
同じスィング・ジャズ、ビッグ・バンド・ジャズと括られていても、グレン・ミラーのようなまったり系とはずいぶん違う。
火花を散らすような楽器同士のバトルや、スリリングなパス回しがある。
レスター・ヤング(T.Sax)がいて、バック・クレイトン(Tp)がいる。オール・アメリカン・リズムセクションと呼ばれたフレディ・グリーン(g)、ウォルター・ペイジ(b)、ジョー・ジョーンズ(Ds)がいる。専属シンガーとして“ブルース・シャウター”ジミー・ラッシングがいる。ベイシーのピアノもころころと転がっている。リズムもタイトでスティディ。
そして何よりも、ブルースがある。
大人数の重戦車みたいなビッグ・バンドなのにするすると小回りが効く感じは、後のオールマン・ブラザースやらパーラメント/ファンカデリックに通じるような感じがする。そして、このドライブ感をもっとコンパクトにしたのがルイ・ジョーダンで、その流れの先にレイ・チャールズもチャック・ベリーがいて、さらにその先にビートルズやストーンズがいる。ごく一部のビートルズ・マニアの人たちがよく「すべてはビートルズから始まった」なんてことを言うけれど、それは大きな勘違いで、労働歌や黒人霊歌が酒場で発達していったブルースや教会で発達していったゴスペル、古くは冠婚葬祭の儀式のためのブラスバンドがダンス音楽として発達していったジャズ、そして古くはヨーロッパの民族音楽に遡るカントリーやブルーグラス…そんな諸々の音楽の豊かな海はもっともっと昔からそれぞれが影響を与え合ったり混ざり合ったりしながらそこにあって、イギリスの若者達が60年代に初頭にこれが一番ヒップだと飛びついたにすぎないのだ。
録音機器などない時代から、その場限りで歌われ、そして歌い継がれてきた名もなき人々の歌わざるを得なかったココロのほとばしりとしての音楽。そんなたくさんの音楽の歴史の流れの先にロックがありソウルがある。
カウント・ベイシーの音楽を聴くと、そのことがとてもよくわかる。
それにしても、もう70年以上も前の音楽が今もこうして聴ける、ということはすごいことだなぁ。
70年も前に、この音楽にドキドキして踊った人たちがいた。
そしてその音楽が70年後も僕らをドキドキさせてくれる、という不思議。
人のココロの機微なんて、時代が変わったからってそうそう変わるもんじゃないのだよ、きっと。
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