「被災地の人たちのために私にできることは何でもやっていきたい。」 ワイドショーを見ながらぼろぼろと涙を流してそんなことを言っていたのと同じ口であなたは、 「検査をしているといっても信用できない。東日本が産地の野菜や肉は嫌。」 そう言ってスーパーマーケットで片っ端から産地をチェックする。 この商品はどこで作られたものなのか、とスーパーの担当者に詰め寄る。 問い合わせた産地が中国産だったことを受けて「国産よりもいいわ。」と納得するあなたは、ほんの少し前には「中国産のものは全部取り扱うべきではない!」とヒステリックに叫んでいたことはもう都合よくきれいさっぱりと忘れてしまったのでしょうね。 たかだか1000円程度の募金で免罪符を手に入れて、どうせ家で余っていたに違いない古着やらもらいもののお茶碗セットやらをひっぱりだしてきて、「私にできること。」ってせいぜいその程度のことなんだな。 原子力というものがいかに人間の制御の範囲を超えているか。 そのことを知るために大きな代償を払った僕たちの社会は、こうなったら大変なことになるということはうすうすわかっていながら見ないふりをして無責任にいいとこどりだけをしようとしてきたのだと気づかされたはずなのに。 ノドモト過ぎれば熱さを忘れるが如くいつの間にか被災地はテレビの風景になっていくばかり。 2011年の漢字に“絆”という文字が選ばれたことに対して、“人と人との絆の大切さが見直された一年だった”とNHKのアナウンサーはしたり顔で言うけれど、本当にそうだろうか? むしろ、人間の卑怯なところ、汚いところ、ずるいところが露わになった一年だったのではなかったか。 所詮誰しも自分の暮らしが可愛い。 口ではなんていったって、自分の身を切るようなことはしたくない。 原発には反対。でも電気がなくっちゃ生活できないんだからいきなり止めるのは反対。 代替エネルギーの開発をすすめなくてないけない。でも、電気代が高くなるのは反対。 東北地方の農家を支援するべきだ。でも、東北のものは食べたくない。 国の財政が緊迫しているのは知っています。だから無駄な公共事業の予算は削減するべきです。でもうちの町にも高速道路は通してね。公共事業削減だからと言って文化振興の費用を削るのはけしからん。 増税は反対!その前にやるべきことがたくさんあるだろう! 年金は65歳から支給しろ!でも、若者達の負担が増えるのはやむをえないね。。。 総論賛成。各論反対。 世の中を変えなくっちゃいけないけれど、自分の暮らしだけは何が何でも何の痛みもなく今までどおりでお願いね。。。 あぁ、現代人はなんと自分勝手なのか。 まるでわがままな糖尿病患者のようだ。 今のような暮らしを続けていてはもたないことがわかっているのに、一度覚えた甘い味が忘れられずに嘆いている。不摂生をくりかえしながら自分だけは今までどおりに暮らせると思いこんでいる。 そして自分のことを棚に上げてああだこうだとぼやいている僕も、きっと当事者になれば同じようにギャアギャアとヒステリックにわめくのだろう。 でも、そのようなことが明らかになったことは、決して悪いことばかりではないと思うのです。 このなんともいえない奇妙な世の中に違和感を持っている人たちは少なからずいて、その人たちの持つ微妙な違和感は、やがて世の中が変わる始まりに変わっていくような予感があります。 あの大きな震災とその後の原発事故は、僕たちの国が前から持っていた危うさをより明らかにするきかっけとして作用した。 そして、いつか振り返ったとき、2011年という年は、あぁ、あのときから確かに世の中は大きく動き始めていったのだな、という年になるのではないかという気がうっすらするのです。 ■ 年の暮れに読み返していた、池澤夏樹さんの『春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと』 。 池澤夏樹氏は、いつも冷静に物事をとらえ、客観的に観察し、明晰な語り口でその考察を伝えてくれるのだけど、この本ではめずらしく、迷いながら途方に暮れながら、それでも何か今の時代に生きるものとして言葉を発しないわけにはいかないという使命感で言葉を連ねていったという印象がした。
失われたひとりひとりの“看取られることのなかった”死を悼み、自然現象を擬人化したところで自然にはまるで意図などないことを確認しつつそれでもそうせざるをえないのが人間だということを認め、原子力の安全に対する言葉の嘘を見破り、政治にどのような姿勢で接するべきかを説き、それらすべての考察がまた、人が時代と共に生きることへと収斂されていく。
そこには、決して絶望する必要などない、というメッセージが込められている。
最後の章より。
これを機に日本という国のある局面が変わるだろう。それほど目覚ましいものではないかもしれないかもしれない。ぐずぐずと行きつ戻りつを繰り返すかもしれないが、それでも変化は起こるだろう。
ぼくは大量消費・大量廃棄の今のような資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への促しのひとつとなることを期待している。
人々の中では変化が起こっている。自分が求めているのはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。
その変化を、自分も混乱の中を走り回りながら、見て行こう。
Since2011。 Since2011。 Since2011。 あの年から始まった。 そう思えるようにするために。 僕らはまず、何をするべきなのか。 まずは、あの日の思いを忘れないことだ。 卑怯で、汚くて、ずるい人間達が、それでも自分の小さな暮らしを守るためにあくせくと色んな思いを抱えて生きている、そのことが疎ましくも愛おしいのが人間なのだ、ということを抜きにして“絆”なんてきれいな言葉で事実をごまかしてしまわないことだ。 違うかな?
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本当に今年はいろんなことを考えさせられた重い一年でした。でも、このことはきっとこれから生きてくるのだと思います。
一歩一歩ですね。