お盆。 僕が育ったのはベッドタウンの新興住宅街で、家には神棚も仏壇もなかったから正直「ご先祖様」がピンと来ない。お墓参りだって、母方の田舎に子供のころに帰省したときに行った記憶がかろうじてあるくらい。母方のおじいさんは僕が生まれた年に亡くなっていたし、父方はいろいろあって親戚とは絶縁状態だったから、ほとんど顔も覚えていない。だから、理屈としては、脈々とつながってきた命のリレーの先に自分自身の命があるということを理解しつつも、実感としてはまるでない。ご先祖様の具体的イメージがどこにもない。 先日、両親と小さな旅行に行ってきた。 父はまだくたばる齢ではないけれど、心臓にペースメーカーは入れるわ人工透析は受けるわの半サイボーグ状態なので「もう、遠くに旅行へ行くことも難しくなりそうだから、一緒にどうだ」と誘われたのだ。 両親と旅行なんて実に30年ぶり。 いろいろ忙しいので断ろうかとも思ったけれど、孫の記憶の中におじいちゃん・おばあちゃんと旅行に行ったことを残しておいてあげるべきだ、と思ったのだ。 せいぜい長生きしてもあと10数年。順番どおりなら確実に父や母のほうが先に逝く。 けれど、人が本当に死ぬのは、その人を記憶している人が誰もいなくなったときなのだと思う。 だとすれば、娘の記憶の中に少しでもおじいちゃん・おばあちゃんの姿があれば、少しでも長生きできるんじゃないかな。 それから娘が自分の命について思い悩む時期が来た時にも、おじいちゃん・おばあちゃんのリアルな思い出はきっと役に立つはずだ、と思ったりする。 フルーツ/佐野元春 佐野元春、1996年の作品『フルーツ』。
色とりどりのフルーツが盛られたこのアルバムジャケットを見るたびに、お盆のお供えをイメージしてしまう。賑やかで、そして少しせつないフルーツたち。
このアルバムは、次々といろんな種類の音楽が飛び出してくるヴァラエティに富んだ構成で、それこそフルーツの盛り合わせのようだ。ひとつひとつの楽曲はまるで万華鏡をのぞきこんでいるようにとてもポップでキラキラしている。だが、それにも関わらず、どこか歪んだ感じ、もやのかかったような感じが全体を覆っているのだ。ブライアン・ウィルソンやトッド・ラングレンの作風にも通じるような、ポップさと危うさ。それは、このアルバムは前の年に亡くなった佐野の母親に捧げられているからかもしれない。
佐野自身が死と向かい合いながら、生きることの意味を深く掘り下げた果てに出てきた言葉とメロディ。
ラストのポエトリィ・リーディングではこんなフレーズが呟かれる。
いつか僕が死ぬとき
きれいな声が聞こえたらいいな
僕らはもっと幸せになれるはず
僕らはもっと陽気になれるはず
(フルーツ ~夏が来るまでには~)
そうだな、そんなときに、きれいな声が聞えたらいいな。
生きているものと死んでしまったものの垣根が取り払われるお盆。
死を忌み嫌うものとして遠ざけるのではなく、生の続きにあるものとして捉えることが安らかな気持ちをもたらしてくれる。
脈々と続いてきた命の連なりと、その果てに自分自身がいること。実感として乏しいからこそ、お盆くらいは、そんなことに思いを馳せておきたいのかもしれないな。
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