「生物が生きている限り、栄養学的欲求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質とともに変化して止まない。生命とは代謝機械の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。」 いきなりそう言われても何のこっちゃ?って感じですね。 これは、1937年にドイツのシェーンハイマーという科学者が提唱した「動的平衡」による生物の定義なのだそうです。 「食べること=車に例えれば、ガソリンを入れること」と何となく考えがちではありませんか? 食べなければやがて衰弱して死ぬ、でもそれはエネルギーが足りなくなるから。 えっ??本当にそう?? シェーンハイマーのその学説の中で、生物は「固定された内燃機関」ではなく、分子レベルで常に食物によって補給された分子と常に入れ替わり続けている「流れ」のようなものなのだ、と説いている。 食べたものは生き物の体内から出て行かずに日々身体に置き換わっていて、分子レベルでは生命は変化し続けている。その変化の流れを止めないために食べ続けているのであり、生きているということは流れそのものである、ということだと言うのだ。感覚としては外界と隔てられた固体としての実体があるようには感じていたとしても、実際は分子のゆるい澱みのようなものなのだ、と。 実際、シェーンハイマーの実験によると、ネズミでは3日で身体のたんぱく質のほぼ半分が置き換わっているのだそうだ。一週間も経てば、ネズミは一週間前のネズミとは物質的には別の存在になってしまっているわけだ。 この学説を知って思い浮かべたのは、しばらく見なかった人に久しぶりに会ったときに、似ているけど違う人のような気がするときのこと。その人を形成する中身は入れ替わってしまっているのだとすれば、今目の前に入るのは、以前知っているその人そのものではない、その人のプログラム通りに形成された別の塊??だということ? そう書けばなんだか気持ち悪いような気もするけれど、完全に入れ替わった中身を連続的な同じものとして認識することは実はとてもありふれたことで、例えばプロ野球チーム。10年前の阪神タイガースは今の阪神タイガースとメンバーもスタッフも戦術もまったく同じではない。それでもタイガースはタイガースとして同じチームとして認識され、連続性が共有され、ファンは同じチームとして応援をし続けている。荒っぽく言えばこれと同じようなことが起きているのだろう。会社だってそうですよね。人は退職や異動で常に入れ替わるけれど、会社やそれぞれの部門は人が入れ替わっても連続性が保たれている。そうでなきゃ仕事にならない。同じことだ。自分自身の中身は常に入れ替わり続けている。一時として同じではない。そしてあなたも、一時として同じではない。あなたが知っていると思っている僕は実はもう中身は入れ替わってしまっているし、僕が知っているあなたも実は中身はすっかり入れ替わってしまっている…。 いや、それはそれできっとそういうもんなのだ。 僕らはいつだって生まれ変わっているのだと考えれば、なんだかちょっとかっこいいじゃないか!?という気がしないでもないだろう? このシェーンハイマーの「動的平衡」の学説を、僕は、図書館で借りた辰巳芳子さん、という方の著作で知った。 食の位置づけ~そのはじまり 辰巳 芳子
辰巳芳子さんは1924年生まれの料理研究家で、「良い食材を伝える会」であったり「大豆100粒運動を支える会」などといった食にまつわる活動をされている方、たくさんの著作もあるらしい。
そして「人はなぜ食さねばならないのか?」という自身の長年の疑問に対して、このシェーンハイマーの学説を知ってとても納得されたそうなのである。
生き物は「流れ」であり、「食べたもの」がそのままその「生き物」を構成する要素になる。
つまりは、何を食べたかということがそのまま自分自身を形成することなのだ。
今食べているものがそのまま自分自身になる。
そう考えたら、栄養バランスはもちろん、その食べ物が元々はどんなもので、どんな場所に生まれどんな風に育ってきたものなのか、ということが気になるのは当たり前。
分子レベルで見れば、例えば牛肉以外一切食べない人がいるとすれば、その人は全部牛肉の部品で出来上がっているわけで、そうするとその牛が健康だったか不健康だったかはとても大切なことになる。そしてその牛も元々はその牛が食べたとうもろこしやら牧草やらの部品でできていたわけだから、そのとうもろこしや牧草がどんなものだったのかが大切なこと。効率重視の狭い畑にぎゅうぎゅうに植えられて、病気でもないのにごっそりと予防用の農薬を振り掛けられたとうもろこしなのか、健康な大地にしっかり根を張って太陽の恵みを育ったとうもろこしなのか。
そう考えると、地球環境を守ること、地球の生態系を守ることというのはそのまんま自分自身を守ることに他ならないのだなぁ…。
そんなことを考えながらこの本を読んだ。
あ、そうだ。
何を食べたか、だけではなく、何を読んだかも同じようなことかもしれないな。
何を読んだかも自分を形成する大事な要因のひとつで、読んだものも同じように分子レベルで分解されて自分自身の中に取り込まれていくはずだ。きっとそれは「プログラム」の方に作用する。
どんな経験をしてどんなことを考えたか、が「プログラム」を左右する。人の一生ではそんなにたくさんの経験をすることはできないが、本を読めば疑似体験が出来る。自分の考え以外のいろんな考えや知識を得ることが出来る。たくさんの要素があったほうが、プログラムはより豊かなものになるはずだ。
ふむふむなるほど。
生き物って、奥が深い。そして不可解。こういうこと考え出すとあっちこっち脱線して止まらなくなる(笑)。
…さて、とりあえずこの文章の結論はどこへ向かうか、というと、「図書館はいいなぁ」というところへ向かう(笑)。
本を買うということはその本を所有するということで、買った本が(売りに行かない限りは)自分の部屋にある、ということは、やはり自分の部屋になじむもの、やはりそれなりの自分の中での体系に沿ったものを選んでしまいたくなる。それに、買う以上はコストパフォーマンスも大切で(無尽蔵にお金があれば別だが所詮はサラリーマンだ)、どうしても「モトが取れる」ものを選んでしまいたくなってしまうから、ついつい自分にとって無難なものを選んでしまう。結果として無難な価値は得ることが出来ても、世界は広がらない。
その点、図書館はいい。
ずらっと並んだ本の海から、そのとき興味を持ったものを手にとって借りてくる。
思ったよりおもしろくなければ読み進めなければいいだけのこと。
そしてときたま、今までの自分にはまったくない新しい共感に出会える本にぶつかったりすることもある。
この辰巳芳子さんの本は、図書館でなければ出会えない種類の本だった。
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この手のことっていうのは考えだすとキリがなくはまってしまいますね(笑)。
確かに40代後半~50代にかけては若く見える人(若造り、ということではなく)と老け込む人の差はぐっと広がりますね。年齢を重ねても若い人は、きっと新しいものをどんどん自分の中に取り込んで新しい自分を更新しているのかな、という気がします。