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愛犬ハチ


「ご主人様、たいへんお久しゅうございます。」


誰かの声が聞こえた気がしてふと目を覚ますと、枕元に一匹の犬が座っていた。

犬は座ってハァハァと舌を出して呼吸しているだけなのだが、頭の中に直接入りこんでくるように言葉が聞こえてくる。

「ご主人、私です。ハチです。」

「え?」

ぼやっとした頭を降ってよく目を凝らすと、なるほど座っているのは確かにハチだった。

きつね色の短い毛並みとツンと立った耳。ふさふさの尻尾。

柴の血が混ざった雑種で、目の上に眉毛のような白い模様があってそれが両側に向けて垂れ下がっていたのでハチと名付けたのだった。

「その節は本当にお世話になりました。おかげさまでいい犬生を送らせていただきました。」

「あぁ、そうなのか、元気でやってたんだな。」

「えぇ、おかげさまで。」

「懐かしいな。子犬のときに道端でよたよたしてたときのこと、思い出すよ。」

「私、捨てられてたんですね。はっきり覚えてないのですが。」

「雨の日にな、道端で鳴いてたんだよ。たまたま持っていたビスケットをあげたらすごい勢いでガツガツ食べてね。で、そのあと尻尾ふってついてきたんだよ。ちょうどあの頃、子どもたちが反抗期に入りはじめた頃でね。いろいろギクシャクしてたし、新しい家族が増えれば何か変わるきっかけになるかもと思ってな。」

「そうだったんですか。」

「おまえがいてくれたことには本当に感謝してるよ。子どもらがあんまり口を聞かなくなって、まぁそもそもいろいろ口やかましく注意しすぎたんだろうけどな、まぁ親がうっとおしくなる時期っていうのはあるもんだけどな。

おまえの世話のことや、おまえがああした、こうしたということがコミュニケーションの入り口になってくれたことがたくさんあった。」

「坊っちゃんたちはお二人ともお優しい方々ですよ。たくさん遊んでくださったし、散歩のときにもずいぶん私のわがままを聞いていただきましたし、内緒で甘いおやつもくださいました。」

「まぁそうだろうけど。でも、あいつら、自分ひとりで勝手に大きくなったような顔してな、なんだか。俺が病気になってもろくに見舞いにも来ない。」

「そんなもんなんじゃないですか。私たちは群れで暮らしますけど、基本は個ですから。」

「子どもたちのことをガミガミ言わず、ちょっと肩の力を抜くことができたのは、おまえが話し相手になってくれたからだろうな。」

「私はただご主人様に寄り添っていただけですよ。犬というのはそういうものです。」

ハチはふさふさの尻尾をフリフリしながら、私の顔をペロペロと舐める。

不思議とくすぐったい感覚はなかった。


「おまえがいなくなってから、もう一匹新しい犬を飼おうかと思ったこともあるけど、なかなか踏み切れなかったよ。

あんまり悲しい思いはしたくないしな。」

「いつの間にかずいぶんと時間が経ってしまいましたものね。」

「俺ももう70だからな。」

「これからはもう歳をとりませんね。」

「えっ、どういうことだ?」

「私、今日は役目を仰せつかり、お迎えにあがったんですよ。」

あ、そういうことなのか。

そう意識した瞬間、私の意識はふわふわと浮きあがり、体から浮き上がっていくような不思議な感覚になった。

見ると、ベッドに横たわってチューブをつながれた私の体が見える。

そうだった。

なんとなく思い出してきた。

私は末期の膵臓癌を患い、余命宣告されていたのだ。


医者が私の体を強く掴んで覚醒を促し、看護師はあたふたと駆け回っている。

「もうすぐ奥様と息子さんがいらっしゃいます。最後のお別れをいたしましょう。

その後、私が天までご案内致しますから。」

ハチはそう言ってゆっくりと頷いた。

眉毛の上の白い模様が八の字に揺れた。









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golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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