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月の兎


 

昔、あるところにうさぎときつねとさるがいたそうだ。

あるとき、3匹はある老人に出会った。

老人は、疲れ果てていて、3匹に食べ物を乞うたのだ。

さるは木の実を、きつねは魚をとってきたが、うさぎは一生懸命頑張っても何も持ってくることができなかった。

そこでうさぎは「私を食べてください」と火の中にその身を投げ、自分の体を老人に捧げたのだそうだ。

実は、その老人とは帝釈天という神様で、弱ったふりをして3匹の行いを試そうとしたのだそうだ。

帝釈天はうさぎの犠牲心を哀れみ、その心を尊ぶために月の中に甦らせたのだという。



これは、月になぜうさぎがいるのか、というお話。

出典は仏教説話だそうだ。

一見、自己犠牲についての美しい話のような気がする。

でも僕はこの話が大嫌いだ。

神様だかなんだか知らないけど、人の心を試してはいけないと思う。

神様だかなんだか知らないけど、あんたはそんなに偉いのか?

あんたが心を試そうとして失われた自己犠牲心について、あんたは犠牲を払わずに特権を使って収めてしまうのか?

そういう怒りがふつふつと湧いてくるのだ。

人の心を試してはいけない。

人の心を試そうとする人は、いずれ誰かに試されることになる。

うさぎのとった行動もまた、僕は違うと思う。

それは優しさではないはずだ。

自らの命を捨ててまで人に貢献しようとしてはいけない。

自分も生きて、かつ老人の空腹が満たされる方法を考えるべきだった。

というか、少なくともさるときつねが食べ物を見つけたのなら、すでに一時的にせよ老人の危機は回避されたはずで、それでミッションは果たされたのではないか。

それでも何かしたいと思うのは、さるやきつねへの虚栄心に過ぎなかったのではないか。

さるやきつねに負けたくなかったという弱さではないのか。

本当の強さというのは、自分の弱さと正しく向き合えることではないのか。

少なくともこれを美談にしてはいけないと思う。

その美談の実現を、神様を名乗る者に強要されることがとても恐ろしい。

「食べ物を与えられないのなら、お前のその身を差し出せばいい。」という発想は、「借金返されへんのやったら肝臓売ってもらおか。」という考えと変わらない。

月へ記されるることが何の慰めになるのか。

「隣の息子は国のために戦争へ行った。あんたの息子も差し出してもらおう。死んだら勲章を授与してやるから。」という考えと変わらない。

そういうわけで、僕が見上げる月に、うさぎは居ない。

うさぎは何にも持ってくることができなかったけれど、さるときつねの成果を自分のことのように喜び「おじいさん、これでちょっとはお腹が満たされるね。」と喜んだ。

「僕は食べ物は見つけてあげられないけど、薬草を煎じます。」

「ぜひ、そうしてくれ。僕らは明日も食べ物を探しに行ってくるから。」

老人はその3匹の甲斐甲斐しさに心を打たれ、3匹の心を試そうとしたことを恥じ、神様であることをやめて、次の日から畑を耕し、うさぎと一緒に種まきをしました。

そういう話の方が素敵だと思わないか。






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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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