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トリエステの坂道

サバという詩人のことはよく知らない。
トリエステという町にも、もちろん行ったことはない。
でも、須賀敦子さんの文章を読んでいると、あたかも自分自身が、詩人サバの足跡を求めてトリエステの町をすっかり旅したような気持ちになる。


トリエステの坂道 / 須賀敦子

文体と呼吸があう、というのだろうか。
読み始めはそれほどでもないのだけど、その文体のスピードやリズムがなじんでくるうちに、いつの間にか作家の目線が乗り移ってくるのだ。作家の目線カメラが自分の頭に装着されるような気分。
そうすると、そこに描かれた情景が生き生きと再現される。一歩一歩の足取りや息づかい、空気の匂いや温度感までもがリアルに感じられてくる。

かくして僕は、神父のルドヴィーコさんや、変わり者のトーニ・ブシェーマや、ペッピーノの弟アルドや姑らのあまりにも人間くさい登場人物たちを、自分の周りにいた人物であるかのように錯覚してしまうような感覚に陥ることになった。

驚いてしまうのは、この生々しい文章が書かれたのは、その経験から20年以上も経ってからだった、ということ。
須賀さんは1929年生まれ。20代の頃にヨーロッパへ留学し、31才のときにイタリア人ペッピーノ氏と結婚。その結婚生活はわずか7年でペッピーノ氏の急逝で終わり、42才のときに日本へ帰国。イタリアでの暮らしは10数年に過ぎず、帰国後はイタリア語の非常勤講師などを生業としながらイタリア文学の翻訳を行い、著作を発表したのは61才になってからだったのだ。

異邦人としての客観的立場や、裕福な家庭に育った須賀さんの生い立ちとイタリアでの暮らしのギャップが、観察者としての視点を熟成させたということはあるだろう。
それでも、四半世紀近くも前の出来事をこんなにも生々しく描けるものなのか。
その驚きは、それだけ須賀さんがこのイタリアでの暮らしを深く愛し、またときには戸惑い、憎しみつつも、細胞のひとつひとつに刻みつけていたからなのだと読み進めるうちに納得に変わっていた。

20数年の歳月がそれらの日々を透明で穏やかな景色に変えていった。
そう思うとき、人生の奥深さにくらくらしてしまう。




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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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