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25年

阪神淡路大震災から25年。

えっ、もう25年も経つのか?
っていうのが正直な感想。

当時僕は、京都市内で独り暮らししていて、今の勤め先で働きはじめたばかりだった。
大きな被害にあったわけではないけれど、それでもあの日の揺れは今でも昨日のことのように思い出せるくらいに体が覚えている。

ベッドで眠っていたら、突然下からドーンと突き上げるような衝撃を受けて飛び起きた。
えっ?なんだ?と思う間もなく、グラグラグラグラと部屋が揺すられるように揺れる。
あ、地震か、と理解して、そこからが長かった。
普段の地震なら収まるはずの6~7秒が経っても収まるどころか、ますますガタガタガタと揺れが激しくなる。
本棚から斜めに立て掛けていた文庫本が転げ落ち、カラーボックスに並べてあったCDやカセットテープがガチャガチャガチャと落ちはじめる。
なんだ、これ、やばいぞ、どーしたらいいんだ、と考えながら動けないでいるうちに、ようやく揺れは収まった。
30秒くらいは揺れた気がした。
こんな揺れはまったく初めてだった。
時計は5時46分。
あー、まだ明け方やん。
テレビをつける。京都、震度5。
電話が鳴って、受話器をとると実家の母。
「テレビで見たけど、京都、おっきい地震やったんちゃう?」
「まぁ、揺れたけどだいじょうぶや。」
愛想ない返事をして電話を切り、そそくさと転げ落ちた文庫本とCDとカセットテープをとりあえず適当に元に戻して、僕はもう一度ベッドにもぐりこんだ。

・・・まさか、そのときに、神戸であんな悲惨なことが起きていたなんて、想像すらしなかった。
神戸は情報すら寸断されて、地震が起きてからしばらくの間、神戸の被害の情報は流れてこなかったのだ。

その翌週の週末には、会社から派遣されてボランティアで、かろうじて繋がっていた青木の駅から住吉まで歩き、ぐしゃぐしゃに崩れたお店を片付けるお手伝いをした。
真ん中で折れたマンション、でこぼこになったアスファルト。
車はほとんど走っていない。
あっちこっちで道が寸断されていて走れないのだ。
途中、いくつも、ブルーシートを掛けられた家を見た。
一階部分がひしゃげてしまっている家もいくつもあった。
そこであの日の朝どんなことが起きていたのか、想像すれば胸が張り裂けそうになってしまうので、できるだけ何も考えないようにした。



25年っていうのは、それなりに長い時間だ。
僕が生まれた1967年の25年前といえば、1942年。戦争の真っ只中の時代。
僕の感覚的に言えば、1942年なんて歴史の世界だもの。
うちの娘が「震災から25年」なんていう報道に接するときの気分っていうのはそういう感覚なんだろう。
今、自分の中に生々しく残る25年前の感覚を思い起こしてみると、大人になってからの25年は短い。
だとすると、その当時、生々しい戦争体験が時代の共通認識としてまだまだ普通に残っていたんだろうな、なんて思ったりする。
時代はすっかり巡ったのだ。

人の記憶は風化する。
人は入れ替わり、生々しい傷の記憶はやがて遠ざかっていく。
だけど、地球からすれば25年なんて瞬きの一瞬でしかない。
生々しい記憶が薄れた頃を見計らって嘲笑うかのように、、、もちろん、実際に地球は見計らったり嘲笑ったりはせず、冷徹なまでに自然の法則に沿って物理的な移動を行うだけなのだけど、そう形容したくなるほど冷徹に、人の社会の記憶が薄れた頃に大きなエネルギーの放出を行ったりする。
或いは人の世でも、古い記憶が薄れた生々しい傷を持たない人ばかりになった頃に、威勢のいい好戦論がはびこったりする。
戦争を経験した生々しい記憶や、地震や台風の生々しい記憶を、社会共通の痛みとして保存しておけるメモリーバンクはないものかと思う。
政治家がそういう役割を果たさないのであれば、文学や音楽や映画の中でしかそういう記憶を残しておく手段はないのだろうか。



音楽を。

25年、四半世紀という関連から無理やりの、レッド・ツェッペリン“No Quarter”。



ドアを閉めて
明かりを消して
彼らは今夜帰ってこない
雪は激しく降る
君は知っているだろうか
風は冷たく吹いている
彼らは輝く真実の鋼をまとっている
彼らは伝えるべき知らせを運ぶ
彼らは慈悲などかけらも持たない


ツェッペリンのことはあまり詳しくはないけれど、歌の中に雪や風が出てくるこの歌は、こんな凍える夜にたまに聴きたくなる。
冷たい風に揺れる深い森のようなロバート・プラントの声、抑制的なジミー・ペイジのギターに重くざらついた手触りのリズム、つららのように凍てついた鍵盤の音。
重い感触だけれど、絶望的というよりはどこか暗示的だ。
“No Quarter”とは、無慈悲なという意味の成句なんだということを僕はこの歌で知った。

凍える冬に、無慈悲にも寸断された人生の痛みを少しでも想像して、そのことを噛みしめてみる。
そういう時間を紡ぐことが、時には必要だと思う。





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golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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