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風の歌を聴け

時々、村上春樹という作家が、国民的に人気のある作家だということがすごく不思議に思える。
なぜ、村上春樹という作家が国民的作家であるにもかかわらず、世の中は村上春樹的ではないのか、と思ってしまうからだ。
君にそう問いかけると、君は事もなさげにこう答えた。
だって、サザエさんもちびまる子ちゃんも国民的アニメだって言われているけれど、だからって私はサザエさんにもちびまる子ちゃんにもなろうとは思わないもの。そういうものよ。





世の中で、苦手なタイプの人のパターンというのがいくつかある。
そのうちのひとつが、自称ハルキストというひとたちだ。
自称ビートルマニアや、自称ナイアガラーにも同じようなものを感じることがある。
どうしてだか、とても居心地の悪いものを感じてしまうのだ。
ジャイアンツもプロレスもへヴィーメタルも、どちらかといえば積極的に嫌いなのに、巨人ファンだとかプロレスマニアだとかメタラーだとかを自称する人たちについてよりも、自称ハルキストや自称ビートルマニアの方が気持ちが悪いと感じてしまう。
それはなぜだろう。



ずいぶん久しぶりに『風の歌を聴け』を再読したのは、Bananakingさんによる素敵な連作記事をずっと読んでいたからだ。

細部の印象が薄れていたので、もう一度読んでみようと思ったのだ。

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風の歌を聴け / 村上春樹

初めてこの本を読んだのは、確か高校一年の夏休みだった。「僕」がデレク・ハートフィールドに夢中になるより一年おそい。
学校からの帰り道に立ち寄れるそう大きくはない町の本屋さんの、レジの近くの平台に「今月の新刊」として山積みされていた文庫本を買ったのだ。1982年だった。当時は280円とか320円とか、そういう価格だったと思う。
いずれにしてもはっきり言えることは、当時村上春樹は新進気鋭の若手作家で、僕はまだ童貞のガキんちょだったということだ。
そのときの感想はおぼろ気にしか覚えてはいないのだけど、教科書に出てくるような作家や、大人たちが読ませようとする作家とは明らかに違う、といううすぼんやりとした共感を感じたのは確かだった。15才の感じることなんて、まぁその程度のものだ。

そのあと高校を卒業してから幾度か読み返したんだろうと思う。
立ち止まり行き先が見えないまま漂泊する登場人物に共感することもあれば、ずいぶんクールでペシミスティックに過ぎると辟易したこともあった。
30才を越してからは、きっと読み返したことはなかったと思う。


今回読み返して、あれ、こんなこと書いてあったっけ、と思ったのは、1970年の夏の物語に入る前の最初の章。

「文章を書くことは、自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。」

という言葉。
そして、

「うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない。」

という言葉。

この第一作めの作品(処女作という言葉は敢えて使わない)は、そういう思いで書かれたものだったのか、ということ。
この、村上春樹的スタンスを表明した一文は、若い頃の僕にはまるでひっかかっていなかった。

もしもこの作品が売れずに、村上春樹が続編を書かなかったとすれば。
きっとこの作品は、伝説になっただろう。
たった一枚のアルバムを録音して解散したフィフス・アヴェニュー・バンドのように。あるいは、たった一枚のアルバムしか残さずに30才で溺死してしまったジェフ・バックリィのように。
そして本人は、デレク・ハートフィールドのようにエンパイア・ステート・ビルからヒトラーの肖像画と傘を持って飛び降りていたかもしれない。

実際は、村上春樹はこのあとも書き続け、書きながらスタイルを変え続け、いつの間にか、国民的作家どころか、世界的な小説家になった。
けれど、この第一作めの第一章に書かれた言葉・・・自己療養と救済・・・こそが村上春樹が小説を紡ぐ意味だったのだとすれば、、、
いや、こんなことはきっと、数多の村上春樹批評家が真っ先に書いていることだろうな。
僕が感じたのは、村上春樹は救済されたのだろうか?ということだ。
おそらくは救済された。
ただし、代わりに別の闇を請け負った。
まぁ、生きることはきっとそういうものなのだろう、という気がする。
上手くは説明できそうにはないけれど。




さて、冒頭に記した話題。
ハルキストやビートルマニアを自称することへの違和感のこと。
それは、そういうことを自称する行為の中にある「100%の信頼と服従をします」という感覚が、それらの作品の本質からはずっと離れた真逆のことなんじゃないのか、という思いが拭えないところから来るのだと思う。

巨人ファンやプロレスマニアやメタラーなら、虚構の世界に100%の信頼と服従をする中で虚構の世界を楽しめばいい。けれど、村上春樹が描き出そうとしたのはそういったファンタジーではなく、現実と関わっていく中での世界の切り取り方なのではないのか、と。
そういうことにすら無頓着、無神経でただ受け取った作品を礼賛するのだとすれば、やはり作品で表明された本質とはとても遠いのではないか、と思ってしまうのだ。








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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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