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音楽とは沸騰であったのだ

言葉の問題をやっておれば、言葉が様々な拍子で沸騰しますし、舞台などでたわけた仕草をしておれば体が沸騰しますしね。
そうか、いま気付いた。
わたしにとって音楽とは沸騰であったのだ。
沸騰しておるのだが、ただ単に水が沸騰しておるのではないのだ。
からだや、おもいや、ことばや、悪意や、その他さまざまのものが沸騰する力がわたしにとっての音楽であるのだ。

音楽について書かれた、心に残るフレーズ。
これは、町田康さんの「へらへらぼっちゃん」の中の“音楽とわたし”という文章の一節です。
「くっすん大黒」で文芸賞を受賞し、パンク歌手・町蔵が作家・町田康として名が知れ始めた頃の文章。
今や大作家の貫禄さえある町田康だけど、この頃はほんとうに仕事がなく貧乏で、酒ばっかり飲んで暮らしていたようだ。
言葉のあちらこちらに、尖ったギザギザがあり、キレイゴトで覆い隠されている世の中を全然違う角度からその覆いを剥がしてみせるような言葉がごろごろと転がっていて、とても痛快で、ゲラゲラ笑ってしまう。

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へらへらぼっちゃん / 町田康

音楽とは沸騰。
なるほど、と思い立って、町蔵としてのデビュー作であるINUの『メシ食うな』を聴いてみた。確かに沸騰している。っていうか、沸騰を通り越して煮えたぎっている。
高校生の頃に初めて聴いたときは、テンションの高さにはぶっ飛んだけどさすがにこの世界観にはついていけない、と思った記憶がある。先日亡くなられたミチロウさんも同じような印象でのめりこむところまではいかなかった。
その印象は今も変わらないのだけれど、「沸騰」というキーワードをあてはめてみると、町田町蔵の演っていたことと町田康のやっていることはまったく同じなのだということが見えてくる。

音楽も文学も、ただの分類ではありませんか。
なにがなにを支配するということではなく、ひとつの命や魂のなかで沸騰しているものは同じなんですよ。


その感じ、なんとなくわかる。
音楽も、文章も、絵も、写真も、何か心の沸騰を置き換えるプロセスなんだろうと思う。
いや、沸騰だけではないかな。
心があったかくなったとか、凍てついたとかも含む、心の温度変化。
そういう温度変化があったときに、その動きの輪郭をもっとちゃんとつかんでみたいという思いが湧いてくる。
それを見える形にする方法のひとつが、音楽であり、文章であり、絵や写真なのかもしれない。

自分自身は、沸騰して煮えたぎっていくタイプではなく、ついつい周りを見渡して落としたりこぼしたりしてないか?ってことの方が気になる性質なだけに、沸騰系の人へは憧れと敬意があります。
それはそれ、持って生まれたキャラクターはなかなか捨てられないし、また捨てる必要もない。
ただ、煮えたぎりはしなくても、心の沸騰はある。
そのことをどうやって伝えようか、という練習を今まで続けてきたのであれば、この先はどういう形に収斂させていくべきなんだろ、ってなことをちょっと思ったりしてみた。
他人の沸騰は、それに触れた人の温度を上げるからね。
心の中の水は、ほっておいたら腐ってしまう。
意識してかき混ぜたり、沸騰させたりしておかないとね。




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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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