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山月記・李陵

古典シリーズ第4彈。中島敦。
中島敦も、林芙美子や梶井基次郎とそう変わらない1909年(明治42年)の生まれ。
どうやら僕は、この世代の物書きに共感度が高く強く惹きつけられるようだ。

昔、教科書に「山月記」が載っていて、そのときもこれはわりとおもしろいと感じた記憶はあった。
で、改めて読んでみて。
こんなにもワイルドだったんだっ!と衝撃。
文章の熱量が半端なくって、読んでいる間、エネルギーをたくさん受け取っているような気がしました。

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山月記・李陵 / 中島敦

中島敦の特徴といえば、中国の古典を下敷きにしたストーリーと、漢文調の文体。
この手の漢文調は取っつきにくさはあるけれど、一度入るととてもすらすら読める。
冗長にならず端的で歯切れのよい言葉、講談などを思い起こさせるリズム感のある文章。
端的な漢文調だからこそ一文にこもった密度が濃くて、それが連なって心地よいビート感を作りだしている感じ。

名作と言われる『山月記』も『李陵』も若い頃に読んだよりもずっと激しくひきこまれたのだけれど、とりわけおもしろかったのは『悟浄出世』という短編。
西遊記に出てくる沙悟浄の、三蔵法師に出会うまでを語った、まぁいわゆるスピン・オフ・ストーリーなんだけど。

この沙悟浄、流沙河という妖怪が暮らす河の底で「今までに九人の僧侶を食った」と虚勢を張ってはいるが、周囲の妖怪からは独言悟浄と蔑まれている。

なぜ俺はこうなんだろう。そもそもなぜ生まれてきたのか。魂とはそもそも何だ。

悟浄はそういったことに思い悩む、いわゆる今でいう「中二病」みたいなものに陥っている。
そして、「あらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得の行く迄、教を乞おう」と旅に出る。

この旅に出ていた悟浄が出会ういろんな学者や修行者、宗教者、仙人がとにかく可笑しい。

ある高名な幻術の大家の一味は、物事の真理を極めると幻術を体得するも、その幻術を使って敵を欺くだの宝を手にいれるだの実用的なことばかりを論議している。
ある法師は「世はすべて虚しい、すべては幻だ」と呟きながら死を迎える。
ある座禅師はただひたすら眠るのみ。
街路で世を憂いて攻撃的な辻説法を説く若者。
「わしを憐れむとは僭越であり、わしはむしろわしこの姿にした造物主を讃えている」と言う、せむしの乞食。
思想を否定しただ貪欲に生きる妖怪からは一瞬の隙に食われそうになり、隣人愛を説きながら平気で自らの子を食う蟹の聖僧に偽善を感じ、「心を深く潜ませて自然をご覧なさい」とひたすらに心の平安を説くグループに違和感を抱き、「徳とは楽しむことの出来る能力」であるとひたすら肉欲に耽る女妖怪から逃げ出し・・・

これらはすべて、世にある宗教やら哲学やら思想やらのデフォルメなんだろうな。
中島敦は、それらひとつひとつを誇張して表現しては、ひとつひとつを嗤う。
この姿勢があまりにも痛快で(笑)。

あらゆる宗教や思想を並べるだけ並べて、全部否定していく。そもそもの「生きる意味」を問う悟浄の疑問すら嗤いつつ、それを問うことを否定することも、安直に意味付けを導き出すことも否定する。
既存の考えを何の苦悩もなく受け入れることや、ひとつの考えにべったり染められることそのものの居心地の良さを否定すること。
中島敦のこういう姿勢に、すごくロックを感じたのです。
難解な世界を右も左も善も悪もぜんぶを一度に描ききってしまおうとする手法は、ピート・タウンゼント的な印象。いや、古典の形式を借りながら抽象的かつ斬新な表現をする感じはロビー・ロバートソン的とも言えようか。
いずれにしても、安直に結論を導かず、哲学的で抽象的な事柄を、強靭な音楽的肉体にのせて表現してきた人たちで、そういう姿勢になにか近いものを感じるのだなぁ。


さて、沙悟浄は五年近い放浪の末に、ひとつの真理を見いだす。
それは「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな。」ということ。

「『お互い解っているふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解りきっているんだから』という約束の下にみんな生きているらしいぞ。斯ういう約束が既に在るのだとすれば、それを今更、解らない解らないと云って騒ぎ立てる俺は、何という気の利かない困りものだろう。全く。」

そうして苦悩から解放された沙悟浄は、やがて三蔵法師の旅に加わることになるのだけれど、中島敦はそのまますんなり物語を終わらせはしない。
ここまでの物語をご破算にするような一言を沙悟浄に呟かせて物語は続編に続いていく。

「どうもへんだな。どうにも腑に落ちない。わからないことを強いて尋ねようとしないことが、結局分かったということなのか?どうも曖昧だな!どうも、うまく納得が行かぬ。以前ほど苦にならなくなったのだけは有難いが。」

このひっくり返し方がまたしても痛快で。
思索や哲学を重んじてロジカルであることと、衝動や感情に導かれてエモーショナルであることの二律背反性、この相反するふたつの間で揺れ動きながらも転がっていくこと。
これこそロックンロール的ひねくれ方だな、と読後、僕はひとりほくそ笑んだのでした。




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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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