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みそっかす

古典を読んでみるシリーズ、第3彈は幸田文さん。
明治の文豪・幸田露伴の次女。
後に阿川佐和子さん、吉本ばななさん、江國香織さん、井上荒野さんらに連なる二世女子作家・随筆家たちの草分けみたいな人。
この方、林芙美子さんと同世代なんですね。
1904年(明治36年)の生まれ。
ただ、作家としてデビューしたのは林芙美子さんとは対称的に1950年、46歳のとき。林芙美子さんは51年に47歳で亡くなっているからまったくの入れ違い。
生まれ育ちはまるで対称的で、幸田文さんは武家の流れを汲む、比較的裕福で作法やしきたりなどに厳格な家庭で育ったようだ。
林芙美子さんがジャニスなら、幸田文さんはキャロル・キングにも似た感じかなぁ。
表現はやわらかくたおやかだけど、芯があって、そこそこやんちゃで。

misokkasu.jpg
みそっかす / 幸田文

そもそもは父・幸田露伴に関して何か書いてほしいと編集者から依頼されたのが作家活動のきっかけだったそうだけど、単に父との思い出話に留まらず、少女時代の心情が手に取るように描きこまれている。
つぶさに描かれた日常生活の細かな描写から、大正の頃の家族の暮らしが映像的に浮かびあがってくる。
生母の死、かなりお堅いおばあさん、聡明だった姉のあっけない死、再婚でやってきた継母。
そう書くとかなり波瀾万丈な少女時代なのだけど、この時代はどこの家庭でも似たり寄ったりだったのか少女なりに淡々と受け入れていく様子は切なくも逞しくもあって。
父親が作家だったからといって、娘にとってはよい思い出、美しい思い出ばかりではない。
父親と継母がだんだんと不仲になっていく過程は、読んでいてもチクチクと胸が痛んだ。
「口上」というお話では、遣いに出されたおばあさんの家で、「おまえの家のことが心配だ」「おまえの家を喧嘩のない家にしてやりたい」という言葉を信じて、父と継母の間の見聞きしたことをおばあさんに話してしまう。
おばあさんとしては当然悪気はないのだけれど、おばあさんが文から聞いた話を元に父と継母へ説諭をしたあと、父親から「おまえがつまらないことを話すからおっかさんに心配をかけてしまった。」と怒られてしまうくだりなんかは、泣きそうになったな。
「おばあさんはうそつきだ。おまえの家をよくしてやるって言ったのに。」と泣きながら抗弁する文。
あ、なにか似たような経験を子供のころにしたような気がする、ってざわざわしてしまった。
時代は違っても、そういうことっていうのは子供の心に傷を残す。
そういうトラウマを背負いながら成長していった文さんにすごくシンパシーを感じてしまう。
そのことを素直に書けるようになるには、40年近い日々が必要だったのだろうな、と。


そしてもうひとつ、印象に残ったのは、文章や言葉の美しさのこと。
美しいといっても、格調高いとか美辞麗句が並んでいるというわけではない。厳格な家庭に育ったわりにはかなりやんちゃでおてんばな跳ねっ返りだった文さんだけど、その言葉の端々に生まれついて身に付いた教養みたいなものがやはりにじみ出ている、そういう美しさがいいな、と。

例えば、「おばあさん」という随筆の、祖母に習字を誉められたくだり。

「見どころがあるかもしれないから何か手本をおやんなさい。こうも大きな字は指図をしても書けないものです。」
父はかしこまってお辞儀をしてあやまっている。
家へ帰るとすぐ拓本をくれて「これを習え」と言われた。
天地玄黄宇宙洪荒と、いやな字がしょっぱなから並んでいる。
手本を見て一人で勉強したが、金出麗水あたりでおけらの水渡りになった。

「おけらの水渡り」なんてことわざに出会ったのは初めてだったので調べてみると“初めは熱心にやるが、途中で嫌になってやめてしまうことの喩え”ということらしい。けらは水をよく泳ぐが、長続きしないので、大きな川は渡れない、ということから転じたそうだけど、もはや“おけら”すら若い人は見たことないよね。

父・露伴の言葉としてこういう言葉も出てくる。
「おまえはどうも桂馬筋に感情が動くようだから、人付き合いはよほど気をつけろ。」と言われた。

「桂馬筋」とは、“感情がまっすぐではない、ひねくれている”といった意味。
将棋の桂馬が、まっすぐ進めず、筋違いのところに着地するところから出た言葉らしい。

「じぶくった」という言葉も初耳で、これは、理屈をこね回す。ぶつぶつ文句を言う。無理を言ってすねる。という意味。

あるいは、タイトルになっている「みそっかす」という言葉も現代では使われない。
「みそっかす」は、味噌を漉した時に生じる滓のこと。価値がないものの比喩として使われたり、物の数に入らない者、仲間に入れてもらえない子供などを指して使われる言葉。
読んで字の如くではあるけれど、もはや“味噌を漉す”なんてことがどれくらいの家庭で行われいるものなんだろうか。

幸田文さんは、1990年まで存命でおられたそうで、こんなふうに豊かな言葉を扱える人と生きた時代がほんの少しでも重なっていたんだなぁ、ってことには少し感慨を覚えるものがあって。
8時ダヨ全員集合と少年ジャンプを楽しみ、カップヌードルやカルビーのポテトチップスを食べ、ロックやディスコのビート感を当然として育った僕たちは、こういう古いことにまるで囚われることなく育ってきた、というか、僕たちの少し上の世代から僕たちの世代はすすんでその破壊者であった。
そのことは決して否定すべきでもされるべきでもないのだけれど、こういう素朴な言葉や美しい文化を継承しなかったのだ、ということに少し後ろめたさも感じてしまうのだ。
もちろん古いものが善いことばかりだったとは思わない。
この本でも第三子として生まれた文が女の子だとわかると、露伴が「いらぬものが生まれてきた。」と呟いたとあるように、男の長子優先の家長制度や、性差や出生地による差別や、暴力についての考え方などくだらない因習は山ほどあった。そういうものは破壊されるべきだったはずだけど、同時に美しいものもたくさん壊してしまったのだと思う。
今更気づいたってどうしようもないし、そうやって次の世代が前の世代が作ったものを壊していくのが歴史の常だとは思うのだけど、何だかちょっとね。
せめてこういう古典が、次の元号の時代でも新しい世代へも受け継がれていくといいな。
古典と呼ばれる作品には、きっとどんな時代に育っても共感されるものがある、と当たり前のことを改めて感じたのでした。





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コメント

[C3287]

yuccalinaさん、ご無沙汰しておりますー。
「みそっかす」、関西では「ごまめ」と言ってましたのでまったく知らない言葉でした。
確かに、ギリシャ神話っぽい(笑)。ミノタウロス+クノッソス的な。
町田康さんは時代劇マニアですからね。
あの方の言葉のリズムや思考方法は、伝染りやすいのでヨウチュウイです。
  • 2019-04-13 15:06
  • goldenblue
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  • 編集

[C3286] ミソッカスでした(^_^;)

こんにちは。かろうじてその言葉が残ってた世代です。たぶん3,4歳の頃、姉とそのお友達に交じって遊ぶ時に、いつもミソッカスと呼ばれてました。ルールが分からないけど、何となく一緒に遊んでたので。なので、クロッカスの花を見るとミソッカスを思い出します。カタカナで書くと何かギリシャかラテン語みたいで何か好きです(^_-)-☆

最近ずっと町田康ばかり読んでるんですが、彼の文章は、いにしえの美しい言葉を沢山入れ込んでるところも大好きです。
  • 2019-04-13 11:58
  • yuccalina
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golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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