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◇不思議な羅針盤

うちの職場には喫煙室的なものはなくて、喫煙者は非常階段に置かれた喫煙コーナーで煙草を吸う。
雨の日には雨が降りかかるけど、喫煙コーナーが外にあるおかげで、一日に数回、空を見上げたりその日の気温を体感したりする機会があるのは、秘かにありがたいと思っている。
その非常階段に、蝉の死骸が転がっている。
もうかれこれ3週間以上だろうか。
短い命を生きて、夏の終わりにここで力尽きた蝉。
都会の真ん中の4階なので、アリは登ってこない。コンクリートなので土に帰ることもない。吹き溜まり的な場所にあたるのか風で飛ばされることもなく、ずっとそこにある。
その姿を見ていると、なんだかとても哀れな気がしてきてしまった。
生き物として生きている時期を全うした後は、自然に帰っていくのが本来の姿。
燃やされて水や空気になるか、埋められて土に帰るか、そうやって分解されて自然の一部に戻って初めて、命は循環するのだと思う。

そんなことを思いながら手に取っていたこの本。

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不思議な羅針盤 / 梨木香歩

梨木香歩さんのことを知ったのは、映画にもなった『西の魔女が死んだ』だったのだけど、そのときはちょっと子供向けっぽいかな、って思ったんだ。ただ、押しつけがましくない語り口で、命と自然の関わりについて語ろうとする感じには好感を持った。
この本は、素朴ですっきりした言葉で日々の気持ちが綴られているエッセイ集。
まずは、とても日本語が美しいのです。まるで美しいメロディーを聴くように読んでいて心地がよい。
花や草木に造詣が深く、庭仕事でのエピソードやそこで出会った生き物や自然から感じたことなどの話から、この方がとても自然を軸にした世界観を持っていることが伝わってくる。
自然と対峙するのではなく、自然のうちに自らの心と体を置いて感じたことを、大げさにではなくさらりと、訥々と言葉を紡いでいく。
ある出来事やある発見から、時には深い考察にはまりこんだり、改めてここまでの来し方を振り返って過去の出来事に込められた意味を見つけたり、明日への展望を見つけたり、そんな心の動きが手に取るようにわかる。
そして読後には、何か大切なものをきちんと心に届けてくれる。余韻が心地よいので、一気に読むのではなく、ひとつひとつのお話をゆっくりと味わいながら読んだ。

なんていうのかな、この方の文章は、頭でっかちじゃないんだよね。
文章の向こうに暮らしが見える感じ。
心のアンテナをピンと張って、自分の手や足を使っての丁寧な暮らし。でも自然体で無理することなく、今の自分の状態にいつも気を配って、心や体の声を聞きながら暮らしているような感じがね、とてもいい。

「堅実で、美しい」
「たおやかで、へこたれない」
「近づきすぎず、取り込まれない」
「足元で味わう」
「ゆるやかにつながる」
「世界は生きている」
「スケールを小さくする」
「五感の閉じ方・開き方」
それぞれの章のタイトルだけでも、なんとなく梨木さんの志向するものが伝わってくる。


9月10月は毎年のことではあるのだけれど、めちゃくちゃ忙しくてね。
知らず知らずのうちに心が荒む。日々の過ごし方が雑になる。気分にムラができて、言葉が荒れる。思考が短絡になる。
そんな気分のままじゃいられないときに、梨木さんの言葉はよく効いた。
丁寧に暮らしたいなぁ。
カップラーメンができるのさえ待ちきれなくて、固いまんまとりあえず口に放り込むような生活じゃなくって。
厳選した茶葉をぬるめの温度でじっくりと蒸らしながら香りを楽しんだり、朝から昆布でだしをとって味噌汁を作ったり、小さな畑の一角の雑草をとりながら、毎日少しずつ大きくなっていく実を観察したり、風呂桶に水垢がこびりつく前にゴシゴシこすったり。
そんなことの積み重ねの中から、自分も自分を取り巻く自然も同じ物質でできていて、いつかそういうものに帰っていくんだという安らかな気持ちが生まれてくるのじゃないかしら。
忙しく慌ただしい日々の繰り返しじゃ、自分の中にある茶葉の香りや昆布のだしや小さな果実を見過ごしてしまう。心の内の水垢に気づかないでこびりつかせてしまう。そして、自分以外の人のことにも。

ま、そうはいっても今はしのぐしかないのだけれど。
せめてもの抵抗を、とその時思ったんだな。
夜の11時、誰もいなくなったオフィスで。
非常階段の吹き溜まりに転がったままの蝉の死骸を、ティッシュペーパーにくるんで僕は外に出た。
そして、桜の木の植え込みの下にそっと放してやった。
いつの日か、この蝉も僕も同じになる、そのときのことを思いながら。


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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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