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◇唄めぐり

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音楽好きの人と話をしていると、意外と皆さん「新しい音楽」をちゃんとチェックされているんだなぁ、と感心することがある。
こちとら、すっかり時代から取り残されている。
90年代にヒップホップとグランジが主流になったころからすっかりついていけなくなってしまったからなぁ。
いや、ついていけなくなったというよりは、ついていく必要がないと思った、すなわち、自分が求める音ではないと思ったっていうのが正しい言い方ですが。
そういう自分が「新しい音」としてワクワクするのは、「古い音楽」なのです。
50年代、40年代のリズム&ブルースやドゥー・ワップ、モダンジャズになる前のジャンプ・ブルース的なジャズ、あるいはモダンブルースになる前の古いブルース、30年代や20年代のジャズ。なんていうのかな、人が歌を歌う、音楽を演奏する息吹というか、生の感情というか、そういうものがダイレクトに伝わってくるのが心地よい、という感じ。
そういう感じで古い音楽ばっかり聴いていると、古い日本の民謡なんかも実はとてもリアルに生々しさを感じる音楽であることに気づいたりする。若い頃は、日曜日のお昼にテレビでのど自慢大会なんかが始まったりすると吐きそうなくらい気分が悪くなったくらい、退屈な音楽だと思っていたけれど。

石田千さんの「唄めぐり」は、日本全国各地で歌い継がれている民謡を訪ねて現地を訪れた紀行エッセイ集。
3年以上にわたって訪れた土地は、北海道から沖縄まで25か所もあって、その土地土地で出会った人々とのさりげないふれあいや、土地のお酒や食べ物、風土や気候、歴史なんかが、淡々と綴られている。
ちょっとほわっとして、散文的な石田千さんの独特の文体から、いにしえの人たちが唄に込めた感情が、ふわりふわりと浮かび上がってくる。なんとなく自分もその土地にお邪魔したことがあるような気分になってくる。
取り上げられた唄は、佐渡おけさ、木曽節、こきりこ節、安来節、黒田節、会津磐梯山、こんぴら舟々、安里屋ユンタ・・・といった聞き馴染みのある唄から、宮崎県の刈干切り唄、熊本の牛深ハイヤ節、酒田甚句に秋田米とぎ唄なんていう耳にしたこともないものまで様々で。
現在残されているほとんどの民謡は、明治中期~昭和初期にかけて編集されたもののようだけど、そのルーツは実は様々。“こんぴら舟々”なんかは元々芸者さんが演っていたお座敷唄だったり、“刈干切り唄”は神様に捧げる唄だったり、広島の“壬生花田植唄”は一大イベントである田植えを祝うお祭りの唄だったり、“牛深ハイヤ節“はシケの時に風待ちの港で漁師たちが酒盛りをした騒ぎ唄だったり。“秋田米とぎ唄”なんかは、日本酒を仕込むときの米とぎの作業の時に歌われた労働歌だったのだそうで、歌うことがそのまま作業工程の時間を図るタイマーのような役割も果たしていたということだ。或いは歴史の伝承として歌われたアイヌの歌や、浪曲の要素を盛り込んで町のゴシップを歌いワイドショー的に発展していった河内音頭、重税に苦しめられた庶民の嘆きを歌ったものが多い八重山民謡など、読み進めていると民謡とひとくちにいってもその出自はずいぶんと多様であることを知る。
元々音楽や歌っていうのはそういうものなんでしょうね。ブルースのルーツが、プランテーションに縛り付けられた奴隷たちのフィールド・ハラーであったり、囚人農場で集団作業をするための労働歌であったり、酒場で憂さを晴らすための政治的な歌や、猥雑な歌であったみたいに。日本にもかつてそういう歌があり、そういう歌を必要とする暮らしがあった。そんなに昔のことじゃなく、少し手繰り寄せれば捕まる範囲の歴史の中に、そういう暮らしがあった。たくさんの人たちが、そんな暮らしの中で連綿とつないできた先に僕たちの今の暮らしがある。
石田さんは、そういうことを、現地の人たちとの交流や土地や風土のことを語りながらほんわりと伝えてくれるのです。

「安里さんの三線は音の粒がそろい、ひとつぶずつのあいだにこころのひだの濃淡がある。弦をたどる指は、さっき会った子どもたちのようにのびやかだった。声は空にのびて、たくさん語りあうよりも、手をつないで伝える情けのほうが、はるかに多かったころの時間と景色を見せる。」

「民謡のなにが好きときかれたら、一番は正直。うれしい、かなしい、たのしい、しんどい。嘘をつかなくてもいいし、恥ずかしがらない。広い景色を浮かべ、ほんとうのことばにさわる。からだぜんぶを使って歌うすがたに、気づかずおさえつけていた日々のふたがゆるむ。ほんとうだなあと素直になれる。」

石田さんの言葉のなかに感じたことは、本来音楽がもっていた機能のことだ。
つまり、こころを伝え、こころを共有するという、音楽の役割。
最近の音楽にこころがない、とジジイの戯言みたいなことを言いたいわけではない。商売を前提とした音楽の中にも素晴らしいものはたくさんあるし、僕は今の年ではまるでピンと来ない歌にもこころを震わせることができる世代がいることも承知しているけれど、まぁだいたいは既成のものをとっかえひっかえしただけの「ごっこ」なんだよな。結局のところ、つまらないなと思ってしまうのはそういう部分。もちろん古い音楽や、民謡を含むワールドミュージック的な辺境の音楽がすべて素晴らしいわけではなく、いつの間にかありがたがられて○○流、なんて型にはめられてしまったお師匠さんが伝承していくような類の民謡のほとんどはつまらない。僕が昔吐きそうになったのど自慢大会なんかもほとんどはそうだったんだろうと思う。
結局のところ、聴きたいのは、古い新しいに関わらず、魂を揺さぶられるようななにか、こころの底から歌い演奏されるなにかなんですよね。
そういうものと自分自身の気持ちがスコンとシンクロしたときのなんともいえない心地の良さこそが音楽の一番の素晴らしさなのだと思うのです。



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コメント

[C3037]

BACH BACHさん、こんばんは。
好き!というほど聴き込んでいるわけではありませんし、しょーもないのもたくさんありそうではありますが(笑)、少なくとも巷のロックごっこバンドや、よくわからんダンスユニット、スリリングさのない形式的なジャズもどきや退屈な自称ヒーリングミュージックなんかよりははるかに「来る」ものがあります。


  • 2017-05-16 20:58
  • goldenblue
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  • 編集

[C3036] 民謡

いいですよね!僕が一番好きな民謡は刈干切り唄のマイナー調じゃない方です。尺八が伴奏だと最高です。宮崎では、昔は刈干切り唄のうまさだけを競うコンクールがずっと開催されていたそうですが、今でもやってるんでしょうかね?

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Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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