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◇秋葉原無差別殺人事件 / 村上春樹 『回転木馬のデッドヒート』より「プールサイド」にて

秋葉原の無差別殺人事件。
朝、新聞を読みながらワイドショーを見ていて、何とも言えない気持ち悪さを感じた。

記事を書いている記者も、ワイドショーのレポーターもコメンテーターも、明らかにこの事件に「酔って」いる。或いは「興奮」している。「こんなひどい事件が起きた、許せない」と叫びながら、この大事件をどこか心の底でぞくぞくしながら…楽しんでいるとまでは言わない、けれど、ある孤独な男の描いた夢想がそのまま現実にいとも簡単になってしまうことに興奮している、ひょっとしたら誰もが心の奥底で一度は夢想しつつ実現しようとはしなかった潜在意識の中の夢、が実現したことに。そんなことを書いている僕の心の奥底にも、同じような妄想がなかったとは言い切れないのだ。

犯人の「やりたいこと・・・人を殺すこと 夢・・・ワイドショー独占」という夢は、結果果たされてしまった。
殺人者の夢を叶えてあげてどうしよう、っていうんだ。
そして、その夢が叶った瞬間を孤独な部屋で羨望の目で見つつ「先を越された、もっとでかいのをやってやろう」と更に妄想を膨らませているかもしれない無数の孤独な人間の存在を思うとき、その気持ち悪さは更に膨れ上がってゆく。

たまたま読んでいた、村上春樹の短編集『回転木馬のデッドヒート』の中の一遍「プールサイド」に、こんな一説があった。少し長いが引用する。

“もし水泳競技にターンがなく、距離表示もなかったとしたら、400メートルを全力で泳ぎきるという作業は救いのない暗黒の地獄であるにちがいない。ターンがあればこそ彼はその400メートルをふたつの部分に区切ることができるのだ。<これで少なくとも半分は済んだ>と彼は思う。次にその200をまた半分に区切る。<これで3/4は済んだ>。そしてまた半分・・・・・。という具合に長い道のりはどんどん細分化されていく。距離の細分化にあわせて、意志もまた細分化される。つまり<とにかくこの次の5メートルを泳いでしまおう>ということだ。(中略)そのように考えればこそ、彼は水の中であるときは嘔吐し、肉を痙攣させながらも最後の50メートルを全力で泳ぎきることができたのだ。”

この短編の主人公は、35歳になった春に「人生の折り返し点を曲がってしまった」ことにする。50近くになって、いつの間にか折り返し点を見失うより、70年をフルスピードで泳ぐ、と決めてしまう。
“物事がどのように巨大に見え、それに立ち向かう自分の意思がどのように微小に見えても、それを<5メートルぶん>ずつ片付けていくことは決して不可能ではない”、と。
そうすることでなんとか人生を上手く乗り切っていける気がする、と。

手持ちの文庫本に88年とあるから、20年前。
学生の頃にはまったくピンと来なかったこのくだりは、今の齢となってはよくわかる。
20代前半の頃は、茫洋と続く毎日を一体どこまで泳げばいいのか、途方に暮れてしまうような気持は確かにあった。暗いプールの底で息を潜めて、いったいどこまで我慢すればいいのだ?と思っていた。
あるとき、プールの距離表示を発見したのだと思う。それくらいの距離ならなんとか泳ぎきれそうだ、と。或いは、なんとか泳ぎきってやろう、と決心したのだ。溺れ死にたくはなかったからだ。

犯人はプールで距離表示を見つけることができなかった。どこまでも果てしなく続く息苦しさを、誰かのせいにしてしまった。自分自身の力で泳ごうという意思があれば泳げたはずだったのに、何もかもを人のせいにして、最悪なことに、隣で泳いでる人の足にからみついて溺れさせたのだ。溺れかかっている自分に気付いてほしくて、なんとか監視員の目を引こう、とばかりに。
水の中では、力んじゃだめだ。体の力を抜けば、自然に浮かび上がるんだぜ。


回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)/村上 春樹


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コメント

[C619]

tigerさん、コメントありがとうございます。
あらすじや印象はよく覚えているのに、タイトルが思い出せないことってありますよね。
お役に立ててうれしいです。
  • 2011-08-31 20:53
  • goldenblue
  • URL
  • 編集

[C618] ありがとうございました

golden blueさんへ
はじめまして
tigerと申します

私事ですが、村上春樹さんの本を再読したくなって、タイトルを知りたくて、ネット検索していました
村上春樹さんの著書で
プールが舞台の短編で・・・と
そんな経緯でgolden blueさんのページに辿り着いた次第です

タイトルと短編集の名称が判明してすっきりしました
ありがとうございました

また
それだけじゃなく
golden blueさんの文章に共感するところが多数あり(例えば、音楽を聴くように文章のリズムを楽しむ読書とか・・・)失礼ながら、コメントさせて頂きました

私もロックが大好きです
私はアクセルをボーカルに立てたスラッシュが大好きです

長々と失礼しました
また寄らせてもらいます
  • 2011-08-31 05:36
  • tiger
  • URL
  • 編集

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golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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