6月4日は、天安門事件からちょうど20年の日だったそうだ。 20年前、僕は社会人一年生で、工場の古くて汚い寮に住んでいて、毎日毎日へとへとになりながら、「明日こそはやめてやる、いや、ここでケツ割ったらかっこ悪すぎる、でもこんな会社に埋もれて一生を終わったりはしない」…なんて葛藤の中にいた。 ちょうど得意先の待合室にあった新聞で事件のことを知った。 (毎日へとへとでテレビのニュースなんてまったく見てなかったのだ。) でかでかと書かれた白抜き太字のタイトルと、戦車とデモ隊が衝突する写真。 その記事を見て、何とも言えない気分になったのを、今もよく覚えている。 すぐ隣の国では、僕と同じような年頃の若者が、自由を求めて命を懸けて戦っているのに この俺と来たら、どうせ返品になってクズになってしまうパンを、ただただ毎日運んでいるだけ。 一体俺は何をやっているんだろう?ほんとは俺は何がやりたいんだろう? ・・・政治のことやなんかは正直よくわからなかった。 ただ、命を懸けてまで熱くなれるものを持っている人たちがとてもうらやましかったのだ。 僕がもしあの国に生まれていたのなら、きっと天安門広場に駆けつけたのだろう。 僕も、自由を求めて戦って、天安門広場のシミになってしまいたかった。 そんなことを思っていた。 あれからもう20年も経ってしまったのだなぁ。 その頃よく聴いていた、頭脳警察を、久しぶりに聴いてみた。 「銃をとれ!」や「コミック雑誌なんかいらない」や「ふざけるんじゃねえよ!」なんて曲を、トラックに積んだラジカセでぶっ放しながら、マシンガンをぶっ放しているような気分になっていたあの頃。 頭脳警察セカンド/頭脳警察 今じゃもう僕は、「銃をとれ」や「ふざけるんじゃねえよ!」なんて言葉で問題が解決するわけではないことを知っている程度には大人だ。
あの頃の青い想いを、特段懐かしいとは思わないし、もちろん戻りたいとも思わない。
あの頃にはあの頃なりに抱えた問題があり、今は今であの頃とはまた違う種類の問題がある、というだけのことなのだろう、きっと。
特定の時期に特定の思い入れで聴いた音楽は、その頃のことをセットでしか聴けなくなってしまうことが往々にしてある。ある時期を過ぎてから聴いたら、何ともピンと来なくてしらけてしまった、みたいな。
ただ、にもかかわらず、頭脳警察の音は今聴いてもかっこよかった。
稚拙な言葉で申し訳ないけれど、しびれたのだ。
彼らが詞にこめたメッセージは、もはや古臭い。
けど、それが音楽になったとき、そのときに歌に閉じ込めたエモーションが立ち上がってくるのだ。
そして、そのエモーションは、これからの時代にも、これからの自分自身にも、まだまだ有効なのだ、と思った。
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