今日もごちそうさまでした / 角田 光代食べ物に関する文章というのは音楽に関する文章とちょっと似ていて、いくら言葉で伝えてもなかなかうまく伝わらないものだけれど、だからこそ、どのような視点でどんな風に書くのかに書き手の人となりが浮かび上がってくるのがおもしろい。
この本の著者は角田光代さん。この方のエッセイはついはまってしまう。
同世代だからなおさら共感しやすいのかもしれないけれど、人から見てちょっと変かも、みたいなことでも気取らずサクサク書いちゃう感じがいい。
少し上の世代に多くいた「私は私よカンケイないわっ!」って言う突っぱり方でも、「どーせワタシってこんなんですから・・・」的うじうじでもなく、少し下の世代に割と多い「ワタシってそもそもちょっとこういう人じゃないですかー。」的なヒラキナオリ押し付け厚かましさでもなく「自分としてはふつーにこうなんだけど、どうやら世間的にはちょっと違うらしい、でもやっぱり私はこう思うんだけど、すいませんねー、なんか文句あっか、いえ、やっぱりすいません(ペロッ)。」みたいな感じに(←伝わるのか?)、なんだかとても共感してしまうのです。
角田さんは、実は30代になるまでは極端な偏食家だったそうだ。
若いころから好き嫌いが激しく、食わず嫌いも多かった。そんな角田さんに「食革命」が起こり、嫌いだと避けていたもののよさに気づいたり、初めて口にしてみたり、といったお話が割とおもしろい。
例えば秋刀魚。
「そもそも偏食だった私は、肉が好きで魚が嫌い。とくに骨のある魚と青魚が苦手」で、「骨とか、頭とか、そういう舌に違和感の残るものを口に入れるのが本当に嫌だった。」という角田さんが、おみやげにいただいた秋刀魚の一夜干しを食べて、ぎゅっとしまった身、充分にのった脂、ほのかな塩気、皮のぱりぱりさに「ぎえ!」と思わず叫んでしまうくらい感動して、やがて自分で秋刀魚を焼いて、内臓のほろ苦さをおいしいと思えるようになって「うーん、私、大人になったなぁ。」と思う話。
他にも、どんなに小さく刻んであってもわざわざ丁寧に取り除いていて友人から非難されていたというというマッシュルームや椎茸が、「食べなかったことを著しく後悔するほど」好きになったとか、「肉と油を激しく愛する私にとって、豆腐というのは、その存在価値がまったくく分からないしろものだった。いったいなんのために豆腐というものがあるのか。」と存在を全否定していた豆腐のおいしさに気づいたとか、「鮑サザエの最強版、つまり最強に磯臭く、最強にコリコリした食感で、最強に苦い部分がある」と思いこんで敬遠していた牡蠣をはじめて食べそのまろやかさを知って今では殻付きの牡蠣を自分で開けながら食べるようになったとか、「こんなに土のいっぱい付いた、皮の硬そうなものと格闘したくない。」と無視していた里芋の風味と食感とねっとり感が好きになってその下ごしらえをめんどうと思わなくなったとか。
若い頃に苦手だと思い込んでいたものへの偏見を取り除いて改めて見直してみると、意外な発見や驚きがあったり、そういうのってちょっと人間関係とかでも同じことが言えるのかも知れませんね。
20代前半までの自分のアイデンティティーを模索している時期には、ハッキリと「あれが好き、これは嫌い。」と分別していくことはきっと大切なことなんだろうけど、ある程度自分が何者なのかを確立したあとにはむしろ自分の好みに執着せずに、いろんなもののよさをひとつひとつ知って、ひとつひとつ受け入れながら自分の中に取り込んでいった方が、きっと生活はきっと豊かになるんだろうなー、なんて。
もちろんその一方で角田さんらしい断言もいっぱいあって(笑)。
「こんなに甘くしてどうする!」と近年のやたらと甘いとうもろこしに怒って、とうもろこしは子供の食べものだと断言し、「こんな鉛筆の削りかすのにおいがするもの、本当に必要か?」とやたら高くてありがたがられる松茸に疑問を呈し、「もかもかして、そのもかもかが口の中の水分を奪い取る。」と栗ご飯を否定する。
大人になったからってなんでも受け入れることができるわけではなくやっぱり好まないものは好まない、そういう態度はとても頼もしい。
開かれた部分と閉じた部分、柔軟な部分と頑固な部分、健全な大人には、その両方があるべきだと思う(笑)。
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角田さんは、なんか合うんですよね、なんていうか、友だちになれそうな感じ(笑)。