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音のパレット〈琥珀色〉

琥珀とは、木の樹液が長い年月をかけて固まり、化石化したもの。
樹液が琥珀化するには、2000万年~6000万年という途方もない時間がかかるらしい。
100年生きたとしても、それを20万回分。想像するだけでクラクラしそうだ。

色彩としては、くすんだ赤みの黄色。
オレンジでもなく茶色でもなくゴールドでもなく、そのいずれとも親和性の高い色。
ウイスキーや蜂蜜の色が近いのかな。

そんな琥珀色の音楽、というイメージで思い出すのは、ハリー・ニルソンやランディ・ニューマン。
ならば、ニルソンが歌ったランディー・ニューマンを歌った名曲集なんてどうだろうか。


Nilsson sings Newman / Nilsson

樹液が化石化するくらいの長い年月をかけて熟成されたような深みのある音楽が、ウイスキーで焼けたようなハスキーな声で歌われる。
苦く、悲しみが堆積したような声なのに、どこか蜂蜜のように甘くまろやかで。
ゴールドに憧れながらくすんでいく茶色、オレンジ色の火花をあげながら朽ちていく灰色、枯れて土に還っていくオレンジ色の落ち葉、、、そういうイメージが次々と湧いてくる。
そんな、退廃的で独特の詩情に溢れたところも、樹液やウイスキーや蜂蜜といったイメージとどこか似通っているような気がするのだ。



 陽が昇ると牛乳屋さん
 そして新聞がドアにつっこまれる
 地下鉄がゴトゴト走り出し
 そして僕はあなたを想う
 灰色の夜明け
 また次の淋しい一日が始まる 

 あなたがいない暮らしは
 なんだかなぁ

 みんな何かを持っていて
 で、もっともっと欲しがろうとする
 その何かのために毎朝起きるんだろ
 でも、僕はどうでもいい
 何も起こらない
 何も変わらない

 あなたがいない暮らしは
 なんだかなぁ
(Living without you)

こんなふうに、日々の倦怠にまみれたまま何十年が経ったとき、この気持ちは琥珀色に変わるのだろうか。
そんなことを思いながら、ぼんやりと音楽に身を委ねていた。
秋は深まり、枯れ葉とウイスキーが似合うようになった。






音のパレット〈アイヴォリー〉

アイヴォリー。
少し黄色味や灰色味を帯びた白系統の色。
象牙なんて舶来品だから象牙色という言葉は直訳だろうけど。
この色に感じるのは、尊厳のようなもの。
人としての誇りやプライドを高く持つという以上に、歴史や文化に敬意を持って接した上で意思を強く持って生きる、みたいなイメージがある。

そんな風に思ったのは、このレコードの印象の影響かもしれない。


Extention Of A Man / Donny Hathaway

交響曲のような荘厳なオープニングから、解放を希求する“Someday We All Be Free”への美しい流れ。
天へ届くように、どこまでも伸びやかなダニー・ハサウェイの声は、自由を求めて高く掲げた腕のように、何かを求めるエネルギーに満ちている。



アイヴォリーは、真っ白に比べてくすんでいる。
そのくすみは、人知れず涙したことや、悲しみにうちひしがれたことや、生きる意味を自問自答したこと、誰かを傷つけたり悲しませたりした後悔やなんかが折り重なってこびりついてしまったものなのではないかと思う。
でも、だからこそ、その傷を癒しに変えるようなしたたかさも持っているんじゃないかと。

長いこと生きてりゃ、だんだんくすみもこびりつく。
純白に憧れこそしても、いつまでも真っ白ではいられない。
いつの頃からか僕は、くすんだアイヴォリーの方が、純白よりもずっと素敵な色なんじゃないかと思うようになった。









音のパレット〈群青色〉

秋の夕暮れはつるべ落とし。
とっぷりと暮れていく空は、そそくさと茜色から深い藍色に変わっていく。
あっという間に夜の世界へ舞台転換だ。

夕暮れの後に訪れる群青色は、とても好きな色。
じゅうぶんに深い闇と、どこかこざっぱりと割りきったような明るさを湛えた色。
群青色には、むやみに戯れず交じりあわない孤高の雰囲気と、内に秘めた情熱と、なるようにしかならない世界への諦念や無常感を混ぜ合わせたようなイメージがある。
そんな世界で生き延びていくんだというしたたかさも含めて、迷いのない確信を感じる色だ。



群青色が世界を覆い始める夜の入り口によく似合う音楽、例えばドナルド・フェイゲンの“The Nightfly”。
明るさを湛えつつ、どこか深い闇を抱えているような音楽だという印象が僕にはある。


The Nightfly / Donald Fagen

クリアでスムーズな音像、口どけのいいメロディーやコーラスは確かにとても洒落ていて耳なじみがいい。
その一方で、どこか緊張を強いられるような張り詰めたものが感じられる。
醒めた視点のようなもの、或いは皮肉のきいたセンス・オブ・ユーモア。

ポップできらびやかなリズムや軽やかなエレクトリックピアノの音の洪水の中で、エレクトリックギターだけがブルージーな音を奏でている。



闇の中でいかに明るさを見つけることができるか、闇を受け入れながらもどれだけ明るさを失わないでいられるか。
絶望の中の希望と言ってしまうととても陳腐だけれど、そういうことに自覚的であるかどうかは、現代社会に暮らす人間にとって大きなテーマなのだと思う。
ブルースを取り込みながらもポップであること、つながりを大切にしながらも孤独を恐れないこと。
そういう心情を色にすると、群青色になるような気がする。

じゅうぶんに深い闇と、どこかこざっぱりと割りきったような明るさを湛えた群青色の夜空を、赤とオレンジの灯りを点滅させながらジェット機が横切っていった。






日記、或いは世界の真ん中・世界の端っこ

僕がこれから書くことはあくまでも偏見に満ちた個人的な印象であり、当該の人たちがすべてその印象どおりではないこと、当該の人たちを自分の印象どおりの型にはめようとするものではないことをあらかじめお断りさせていただきます。



コロナ禍の暮らしでいつもなんだかなぁ、と思うことがある。
それは「外出できない」「遠出ができない」ことが、当たり前のように「残念なこと」として取り扱われること。
僕は基本インドア派なので、実際のところ、そんなに残念ではない。
そのことを残念に思う人がいることはわかるし人それぞれだと思うけれど、みんながみんな残念がっているわけではないはずだ。

昔、好きじゃない上司が休み明けにいつも「昨日どっか行ったか?」と休日=外出を前提で話をふってくるのがすごく嫌だった。
「いや、どっこも行ってませんよー。」
「うそやん、ほんなら何してたん?」
「家でゴロゴロ。」
「なんや、しんどいんか。」
「いや、ゴロゴロが好きなんで。」
「そんなん退屈やろ?まだ若いのに。子供もどっか連れて行けとかいうやろ?」
「いやー、嫁も娘も家でだらだらするのが好きで。」
「そんなん、聞いたことないわ。」
みたいな会話を幾度かしたことがあったのだけど、基本この手の連中は「外出=陽もしくは善、非外出=陰もしくは悪」と捉えているようだ。
社会でもそれが多数派であると信じきっている。
けど、実際アンケートを取ってみると、どうも70%近くの人が自分を「インドア派」と思っているらしい。
ひとつのアンケートを恣意的に引用して根拠にするつもりはないけれど、インドア派を自称する人はアウトドア派が思っているよりは明らかに多いのは確かだ。
でも世間はアウトドアが善であることが前提になっている。
インドア派は、アウトドア派がアウトドア好きであることを否定しない。
でもアウトドア派はいつもインドア派を否定する。自身が絶対善であることを信じて疑わない。



こういう傾向はジャイアンツファンにも多い気がする。
彼らはジャイアンツが球界の盟主であり、ジャイアンツは勝つのが当然だと思っている。プロ野球界全体がジャイアンツのためにあると思っているフシがある。誰もがジャイアンツに一目を置いて当然だと思っている。
今シーズンのジャイアンツは確かに強かった。FA補強や外国人など金で買ってきた戦力ではない、若い選手たちがしのぎを削りチーム力を押し上げたのは確かだろう。フロントは的確な補強を行い、コーチ陣は才能ある若者を育成し、監督は(僕の好みではないけれど)シーズンを通して勝ち抜く采配にこだわった。
僕はタイガースファンだけど、そのことは大いに認める(タイガースがまったく真逆で、フロントは補強をはずし、コーチ陣はまるで指導も育成もできず、監督は一貫性のない独りよがりな采配を繰り返した結果勝てなかったことも認める、、まぁ、それは余談)。
タイガースファンは熱狂的に、半ば自虐的なまでにタイガースを応援するけれど、少なくとも他球団のファンも同じように好きなチームを応援していると知っているから、他チームのファンをけなすようなことは意外としない。12球団平等が前提の意識がある。優勝争いにはからんでほしいけど、毎年優勝しなければいけないとは考えてはいない。
ところが、ジャイアンツファンだけは、自分の贔屓が特権階級だと思っている。
ジャイアンツが毎年優勝しなければプロ野球が盛り上がらないと思っている。そんな時代は昭和の間に終わっているのに。
まぁ、日本シリーズではそういう思い上がりがとことん打ち砕かれることになるのだろう。
偉大なる大監督はまたDH制のせいにするんだろうか。



これらのことと同じ匂いがするのが、某超大国の現職大統領の支持者たちの振る舞いだ。
敗北を認めず、根拠のない陰謀論を主張するやり方はあまりにも幼稚に見える。
自分たちこそが主流派、多数派であると根拠もなく信じ混み、他党の支持者たちを罵倒し根拠もなくフェイクだと断言する。
自分たちとは違う考え方をする人たちがいることに向き合おうとしないで、頭から否定しようとする。事実と論理ではなく思い込みと感情だけで対応し、議論の呼びかけに対して非難と罵倒で応える。
これは、この国の保守政党支持者にも通じるところがある。
もちろん一部の極端な革新政党支持者にも同様のことはあってそれは同じ穴のむじななんだけど、発想の元や立ち位置は少し違う気がするのです。

アウトドア派、ジャイアンツファン、保守政党支持者・・・彼らに共通しているのは、自分たちがいつも世界の真ん中に存在していると考え、それ以外の世界があることへのイマジネーションがないことだ。
世界の端っこからの景色を想像しない。
世界は真ん中だけではじゅうぶんに機能しないことに思いを寄せない。
そのことを原発や基地の問題や、いじめや差別やハラスメントと結びつけてしまうと、いささか飛躍しすぎだろうけど。



11月ももう半ばになった。
未だに仕事場以外はどこへも行っていないけれど、そのことで困ったことは特にない。
千葉ロッテがすれすれでCS進出を果たし、プロ野球は異例のシーズンを終えようとしている。とりあえずはちゃんと開催できただけでもよかったとしておくべきなんだろう。
大山選手はホームラン王になれなかった。
藤川投手が引退し、能見投手や福留選手がチームを去ることになった。
大阪都構想住民投票やアメリカ大統領選挙では、良識を持った人がまだまだたくさんいることに少し安堵した。



僕は僕の世界の真ん中にいるけれど、僕の世界は世界の真ん中ではないことくらいは知っている。
世界の端っこから、世界の端っこを想像する。
そのことはずっと大切にしたいし、端っこならではの機微を楽しく味わえるようでいたいと思う、、、
なんてうそぶきながら、11月が深まっていくのを眺めている。











もの食う人びと

「ゴミ箱」というのは不思議なシステムだと思う。
例えば、食事中に食べ物を床に落としてしまったとする。
ほんの一瞬であれば、それを拾って再び口にする、ということは、よほど潔癖な人ではない限り、許される範囲だろう。いわゆる3秒ルール。
一方で、一度ゴミ箱に入ってしまった食べ物を再び口にすることは、潔癖を自認しない人ですらまずないだろう。
お皿に乗ったまま、一度も食卓や床に触れていないとしても、一度ゴミ箱に入ったものを食べることはあり得ない。
冷静に考えれば、例え一瞬でも床に落ちたものの方が不衛生で、お皿に乗ったままゴミ箱に行ったもののほうが不衛生ではないはずなのに。


もの食う人びと / 辺見庸

ノンフィクション・ライターであり小説家の辺見庸氏の「もの食う人びと」は、そういう禁忌を簡単に飛び越えてしまうような衝撃的な現実が描かれている。

バングラデシュでは「残飯」のマーケットがある、という話。
結婚式などで出たご馳走の残り物を、業者が下取りし、マーケットで売るのだ。
鮮度によって価格が変わる。
三日前ものは酸味が漂いすえた匂いがする。それをごまかすためにマーケットには線香が焚かれているのだそうだ。

チェルノブイリの事故が起きた村では、老人たちが村に戻り、放射能で汚染されているかもしれないキノコや果物や山菜を食べる。
政府の指示で避難したものの、新しい土地に馴染めず、物価高でお金も続かないと、原発から30キロ圏内のふるさとに戻ってきた彼らは、汚染されていることは知識としては理解しつつも、それらを食べる。
それしか食べるものがないという切羽詰まったこと以上に、「昔からやってきたとおりに暮らしたい」思いが勝るのだ。
そして「ウォッカや赤ワインは放射能を洗う」と酒を食らう。

飢餓と内戦に苦しむソマリアでは結核と栄養失調で死を待つだけの枯れ枝のような少女に出会う。
ミンダナオ島では旧日本軍の敗残兵に家族を食われたという村人の話。
ウラジオストクに駐留するロシア太平洋艦隊では、上官による食糧の横流しが横行した結果、新兵が餓死したという話。
バンコクでは、時給よりもはるかに高い日本輸出用の猫缶を作っている工場で働く女の子にインタビューしたあと、苦々しい思いをかみしめる。
そういう現実があることを、著者は自分の目で見、舌と胃袋で感じ、ルポルタージュする。

目を覆いたくなるようなえげつない現実をつきつけてくる記事が山盛りなのだけど、だからといって、この本は、世界の貧困状況嘆いたり、飽食の先進国に対して告発を行うような類いのものではない。
フィリピン南部ブスアンガ島のジュゴン食の話。
ポーランドの炭鉱で労働者とともに地下で採掘を行ったあとに食べたボグラッチというスープの話。
紛争下のクロアチアでイワシ漁に出る話。
驚嘆し、ときには共感し寄り添い、ときには突き放しながら、世界各地で、ぎりぎりの食をともに味わう中で描かれているのは、人間のしたたかさであり、食べることへの執着、つまりは生きることへの執着だった。
人間は生き物である以上食わなければ死んでしまう。
生きるか死ぬかの状況で人は食うためにならときには本能をむき出しにして、理性を捨てても食らう、そういうものだということを暴き出す。
そこには眉をひそめたり揶揄するようなニュアンスはない。
むしろ、人間も普通に動物なんだということを肯定的に捉えた、ある種の人間讃歌なんだと思った。

考えてみれば、野生の生き物には禁忌などない。
都会の身近な野生であるカラスなど、ゴミ箱荒らし放題だ。
彼らは生きるために食うし、食うために生きている。
彼らと人間はどこがどう違うのか。
いつか、カラスと同じようにゴミ箱をあさっても生き延びなければならない日が訪れないとは限らない。

そういう覚悟を持って生きることができるだろうか。
でも実際のところ、そんなサヴァイヴァルな暮らしは地球上のあちこちにあって、この国でも実はいとも簡単に起こり得ること。
それが現実になったとき。
その覚悟はあるか。
そう問いかけられた気がした。





いとしいたべもの


いとしいたべもの / 森下典子

表紙にあるメロンパンをはじめ、崎陽軒のシウマイ、舟和の芋ようかん、たねやの水羊羹、おはぎ、カステラ、焼き茄子、おこわ、カレー、オムライス、日清どん兵衛やサッポロ一番みそラーメン、くさや、ブルドックソースまで、食にまつわる思い出や雑感を連ねた軽い口当たりのエッセイ集。
ちょっと心の栄養痩せ細り気味のこの頃、おつまみを頬張るようにサクサク読んで、なんとなく気持ちが落ち着いた。

あーっ、そうそう、と思ったのは「端っこの恍惚」というお話。
鮭の皮や鮭のカマのおいしさが愛情いっぱいに語られる。
挙げ句、南米の地図を引っ張り出してきて、チリが鮭の皮に見えるだの、アンデス山脈の最先端のホーン岬あたりはゼリー状に脂がのっていて焼くとじゅうじゅう音を立てる、というあたり、その感性はただ者じゃないなっていうか、こういう人とは友達になれそうだなどと勝手に思ってしまいました。

シンプルでほのぼのしたイラストもご本人の作。
タッチが柔らかで色が明るいのがいい。
こういう気取りのなさっていいな。



特別なご馳走じゃなくっても、ふと思い出す何気ない記憶には、食べ物がセットになっている。
あのときあの人とあれを食べたな、○○さんはこれが大好きだったな、、、普段は忘れている小さな記憶が、味や食感といっしょに甦る。
母親の作るシチューとか、娘と作ったフレンチトーストとか、とある密会でのオムライスとか、配送していた頃に仕事が遅くなって昼飯食いそびれたときに職場のパートさんが握ってくれたおにぎりとか。
そして、ほんとうの幸せは、そういう何気ないものの中にこそあるんだろうな、なんてあらためて思ったのでした。







音のパレット〈クリスタル〉

「クリスタル」は色なのか?という疑問はとりあえず置いといて。

クリスタルとは、そもそもは結晶のこと。古フランス語の氷、氷のような鉱物の意であるcristalに由来し、狭義では水晶のことを指す。
水晶は、交流電圧をかけると一定の周期で規則的に振動するため、この原理がクォーツ時計などに用いられらたりする。
ちなみにこの水晶圧電効果を発見したのは、ピエールとジャックのキューリー兄弟だ。


Close To The Edge / Yes

イエスの音楽は、とても鉱物的だと思う。
硬くてゴツゴツした印象の演奏は、表面がツルツルとしていて隙がなく、とても純度が高い。
クリスタル・ヴォイスと称されるジョン・アンダーソンの透明感と緊張感の高いハイノートがその印象を強くさせている。
また、きっちりした構成と演奏の正確無比さも、どこか水晶時計の正確なピッチに似た印象がある。
有機的に絡み合っているというよりは、それぞれがガラスの檻の中でプレイしているような、そんな孤独と絶縁の中でのコミュニケーション。
緊張の綱渡りの中での自己表現。



永久凍土の眠りから覚めたマンモスが、透明な檻の中で暴れている、そんな演奏。
シベリアの大地を吹き抜ける風や、氷河がゆっくりと軋む音が、音楽のすき間に埋め込まれている。
太古の昔から地球上に鳴り響いていたような音楽、あるいは地球上の生き物が死に絶えても鳴り続けているような音楽。
人の営みとは無関係な場所で鳴っている。



クリスタルといえば、今年一番見かけることが増えた色でもある。
いわゆる飛沫感染防止のためのアクリルの仕切り。
緊張を強いられる毎日がほんとうに日常になってしまった中で、クリスタルに仕切られてしまったコミュニケーション。
見えるけど触れることのままならない世界で、新しいコミュニケーションのあり方が問われている。
手がかりは、イメージをどうやって共有するか、だと思う。
同じイメージを共有して、個々で磨いたスキルを連動させていくようなことっていうのは、できないことではないはずだけどけっこうハイレベルなスキルなのかも、とイエスの演奏を聞きながら思ったりもしていた。






音のパレット〈ブラウン〉

ロックの長い歴史の中で、色の名前で呼ばれるレコードが3枚だけある。
ビートルズの“ホワイト・アルバム”、プリンスの“ブラック・アルバム”、そしてザ・バンドの“ブラウン・アルバム”。
バンド名を冠したタイトルが他のレコードとの差別化が難しいことやそもそも名前がつけられなかったことから、アルバム・ジャケットの印象でそう呼ばれたに過ぎないのだけれど、ザ・バンドの“ブラウン・アルバム”は、通称と音の印象が見事に一致している気がする。


The Band / The Band

ザ・バンドの音にあるのは、土の匂いや木の香りだ。
素朴で古くさくて田舎っぽい、ということもあるんだけど、土や木のイメージがするのはそれだけではない。

密度が違うのだ。
コンクリートや鉄に比べて、すき間がものすごくある、という印象。
空気感がある、すかすかで風通しがよくて、包みこんだ空気を暖めるような雰囲気がある。

香りが立つ。
表側を焼き上げたお肉のようにジューシーな肉汁がしたたり落ちてくる演奏がある。

旨みがある。
燻製のベーコンやしっかりと干した魚の干物やビーフジャーキーのように旨みが凝縮されている。

かと思えば、枯れたような演奏もある。
それにしたところで、やはり枯れ木や落ち葉ならではの独特の香りが残っているんですよね。
そういうトータルの印象として、やっぱりブラウンがよく似合うと思うのだ。



絵の具でブラウンを作るには、黄色と赤を混ぜてから少しの黒を加える。
この色の要素が、ザ・バンドの音楽の要素ととても近い気がする。
音楽の土台となるリズムは、赤くファンキーな色。ピアノとオルガンはやや黄色っぽい。
そこに、黒が混ざるのだ。
その黒は、簡単に言うと“ブルース・フィーリング”ということだろうか。
ロックンロール的な表現が赤、ラグタイムやジャズっぽさが黄色、ブルースが黒。
或いは、アメリカの大地にへばりつくように畑を耕し作物を収穫する農民たちのエネルギーが赤、厳しい暮らしの中で人生を楽しもうとする庶民のバイタリティーが黄色、そういう暮らしどうしようもないやるせなさや果てしのない希望のなさが黒、とも言えるだろうか。

黒の配分が多くなりすぎると美しいブラウンにはならない。
黒の要素が少なすぎればオレンジや柿色でしかない。
そういう絶妙のバランスで成り立つブラウンは、実は人生そのものなのかもしれない。
そしてザ・バンドの音楽は、喜怒哀楽のすべて、人生そのものを奏でているからこそ、誰の心にも響くのかもしれない。










音のパレット〈山吹色〉

子供の頃に愛用していたクーピーペンシルセットには、やまぶき色が入っていた。
僕はこれを「やまぶき・いろ」ではなく「やまぶ・きいろ」だと思い込んでいた。
黄色のバリエーションだと理解していたのだ。

山吹色は黄色の一種ではあるけれど、黄色のような強い主張はない。
オレンジっぽくもあるけれど、オレンジとは全然テイストが違う気がする。
明るいけれど穏やかで安定感があって、いてくれるとすごく安心する色だ。


Dance into The Light / Phil Collins

フィル・コリンズが作る音楽の安定感や親しみ易さは、ちょっと山吹色ではないだろうか、と思った。
黒や青の系統ではない、もっと表情豊かで朗らかなトーンの声質。
でも、赤や黄色の強いエネルギーはなく、落ち着いていてケレン味がなく、心をざわつかせない。
そして、心のバリアを軽々と越えて内側にすっと入ってくる親しみ易さや毒のなさ、そういう感じが山吹色。

このアルバムは96年リリースの6枚目のソロ・アルバムなんだそうで、ずいぶんあとになって中古店で拾ったので当時の記憶はないのだけれど、円熟の境地とも言えるくらいのポップでカラフルでソウルフルな楽曲がずらりと並んでいる。
大ヒットした“No Jacket Required”なんかと比べてもひけをとらない、コストパフォーマンスのいいアルバムだと思う。



ちなみに山吹色は、英語ではbright yellowとかgolden yellowと呼ぶらしいけど、どうもニュアンスが違う気がする。
明るい黄色だとか金色っぽい黄色、ではあまりにも情緒がない、というか、欧米人の名付けセンスってどうなんだとつい思ってしまうのだ。
やっぱりあの色は山吹色という呼び方がしっくりくる。

晩春の里山でひときわ明るい輝きを放つ山吹の花。
たくさん花を咲かせるわりに、実は硬くて食べられたものではないそうだ。
その飄々としてゴーイングマイウェイな感じも、あの色の雰囲気と近い気がする。









音のパレット〈ショッキング・ピンク〉

ショッキング・ピンクはジョーン・ジェット姉御。
これ、見たまんまですね(笑)。


I Love Rock'n'Roll / Jett Jett & Black Hearts

ド派手なピンクっていうのは、ある種のロックンロール・ライフを象徴する色だと思うんですよね。
ピンクのスーツやピンクのドレス、あるいはピンクのキャディラックのようなものが象徴する、快楽を謳歌し、太く短く瞬間を燃やし尽きる生き方。
ストレート豪速球一本勝負、やるかやられるかの真剣勝負。
ピンクのスーツが誰でも似合うわけではないように、そういう生き方はなかなかできない。だからこそ憧れが生じる。

ジョーン姐さんのロックンロールも、ギミックなしの直球勝負。
あまりにもストレートすぎてのけぞってしまうくらいの。
華麗でテクニカルなギターソロもない、うならせるような構成もない、泣かせるバラードなんて一曲もない、ただただシンプルでラウドなロックンロール。
ジョーン姐さんの“アウッゥ”っていうシャウトが、野生の肉食獣みたいにワイルドでかっこいいんだな。



ハードワークな日々が続く。
大きなことからちまちましたことまで、組織の将来を俯瞰するようなことから細々した実務まで、まるで先発ピッチャーと中継ぎピッチャーを同時にこなしているような忙しさだ。
任せられるのはありがたいこととはいえ、にっちもさっちもいかない日々のいろいろに立ち向かうためにはテンション上げていかなきゃいけない。
そんなときはこういうストレートなロックンロールがうってつけだ。
GOと決めたらGO、ジョーン姐さんがお尻を蹴っ飛ばしてくれる。
ド派手なショッキング・ピンクで武装して、テンション上げてぶっ飛ばしていこう。










Appendix

Profile

golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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