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ギタリストが歌う理由

バンドの中でギタリストがギターを弾きながら歌う姿は、誰も一様にかっこいいと思う。

いわゆる奥田民生や斉藤和義、いわゆるシンガーソングライター的でギターも上手いヴォーカル、自分で作った歌を自分で弾きながら歌う人ももちろんいいんだけど、そうじゃなくって、本職「バンドのギタリスト」が、いろんな理由で歌うようになって歌っている姿が好きだ。

歌うようになった理由は様々だろう。

①ステージのアクセントにギタリストが歌うコーナーとして「お前も歌ってみれば」っていうパターン。

②「俺にも歌わせろ」ということもあるだろう。

③ヴォーカリストをいろんな理由で失って歌わざるを得なくなった。

④ソロになってから歌うようになった。

⑤元々はシンガーソングライターだった人がギタリストとしてバンドに参加した、というパターンもあるね。

①のパターンで好きなのは、第三期ARBの斎藤光浩が歌う“黒いギター”。
「砂丘1945年」っていうアルバムに入ってた。
前記事の蘭丸や下山淳もこのケースか。
ストーンズのステージでのキースのかっこよさとかに憧れると、どのバンドも演りたくなりそう。



スライダーズ時代の蘭丸の定番。



鮎川誠は元々は②だろうか(笑)。
シーナさんが産休のときに出したThe Rokkets名義のアルバムが、男臭くて大好きだった。



③のパターンの代表は花田裕之。
大江慎也脱退直後はかなり頼りなさげな歌だった印象が強いけれど、いつの間にか、すごく味のある歌を歌うシンガーになっていた。



グルーヴァーズの藤井一彦も③だね。
ぶっきらぼうな歌い方がかっこいい。



④は布袋寅泰が代表例。
布袋さんが歌うイメージがなかったから、ちょっとびっくりした記憶がある。



⑤は真島昌利。ザ・ブレイカーズのフロントマン。



光浩のあとにARBに加入した白浜久も元々ソロで歌ってた人。



古井戸では自作曲をいくつも歌っていた仲井戸麗市も実は⑤だったのかも。
ソロアルバムを作った②の時期を経てRC解散で④になり、清志郎が亡くなったという点では③的でもあり。
でも、個人的に一番大好きなのはRCで①的に、柄にもなく不良ぶってやんちゃに歌っている姿なんですよね。



ギタリストが歌う理由。
なんだかんだあるけれど、やっぱり音楽が好きだということ、音楽を通じて自分を表現したいということが一番だろう。
上手下手、声質の良し悪し、声量のあるなしは別にして、気負わず素直に音楽への愛情がにじみ出るから、彼らの歌はすっと心に入りこんでくるのだろうと思う。






天の川サーフ

七夕。
小学生の頃、星を観るのが好きだった。
大きな天体望遠鏡に憧れた。いくつもレンズを重ねたバズーカ砲みたいなやつ。
あの天の川のひとつひとつが太陽のような星だと聞いても、それがどの程度気の遠くなるような話なのか、見当もつかなかった。



麗蘭のアルバムで珍しく蘭丸が歌っていた一曲、「天の川サーフ」。
ルックスや佇まいよりもより甘い蘭丸の声、“君と僕/流星サーファー/アンドロメダでひと泳ぎ”なんていう能天気などうでもいい歌詞。
でも、この曲、なぜか大好き。

ギタリストが歌う曲ってなんか好きなんですよね。
それも、ふだんはほとんど歌わない人が、アルバムの7曲目くらいにちょとっこ入れているような曲。
ヴォーカリストが青筋立てたり感情を込めまくったりして歌う歌とはまた違う味わいがある。



ふだん歌いそうもないギタリストが歌っている曲といえば、これもいいな。
下山淳がファルセットで歌う“Warm Jetty”。



いかつい顔つきに似合わず、妙にかわいい。

かわいい感じといえばなんといっても真島昌利。
この歌にも天の川が出てくる。



あいにくの雨続き、どころか、線状降水帯による大雨被害の日本列島。
天の川どころでもなく、牽牛と織姫の再会もお預け。
せめてロマンチックな歌でも聴いてやりすごすか。

雨が降り続いていても、雲の上にはいつもお月様があって天の川が流れている。
そのことをイメージすれば、少し気持ちが安らぐ気がする。






Driving with Mr.Bob


Greatest Hits / Bob Seger

このところ・・・
そう、もう3~4ヶ月の間ずっと。
ドライブのお供はボブ・シーガーだ。

アメリカの広いハイウェイをひたすら走っているような景色の開けたサウンド、朴訥とした中に熱いハートと男の哀愁を感じる歌は、素直にとてもかっこいい。
車の運転というある種の抑制を求められつつ移動の自由を体感できる行為にはとてもよく合う。

しかし、いくらボブ・シーガーがかっこよく、車の運転に合うからといって、3~4ヶ月もの間ずっとボブ・シーガーをカーステレオに入れっぱなしなのには、それなりの理由がある。
人間の行動にはいつも大なり小なりなんらかの理由を見つけることができるものだけど、今回の場合、その理由は至ってシンプルだ。



カーステレオのトレイに、CDが引っ掛かってしまって、出てこなくなってしまったのだ。



ejectボタンを何度押しても出てこない。
しばらくの間、ウィーンウィーンウィーンとなにやら音がして、それからバタリと止まってしまう。
電源切ってもだめ、叩いてもだめ。
ウィーンウィーンウィーン、バタリ。
ウィーンウィーンウィーン、バタリ。

だめだこりゃ。

最初は「まぁ、いいか。ボブ・シーガーはなかなか悪くないよ。」と思っていたのだが、だんだんと「ううむ、今日もボブ・シーガーか、、、。」という気分になってきた。
車屋さんへでも持ち込めばきっとなんとかなったりするんだろうけど、なんとなく気分がのらない。
そこまでするほどのことでもないだろう、という気持ちがひとつ。
それから、もし車屋さんで治らなかったときのことを考えるととても恐ろしくて、というのがひとつ。
「あー、これは無理ですねー。」
とか言われた瞬間に、この先一生ボブ・シーガーなのか?!という絶望感に襲われそうだからだ。
それはまるで額にボブ・シーガーと焼き印を押されるくらいに恐ろしい。

かくして、そういう恐怖を心の底に忍ばせながら、月に3~4回、運転するたびにボブ・シーガーを聴いているというわけなのだ。




音楽は精神に少なからずの影響を与える。
ずっとボブ・シーガーを聴いていていいなと思えるのは、だんだんと自分が実直な男になった気がすることだ。

言葉数は少なく余計なことは喋らない。
人当たりはよく、思いやりがあって優しく、しかし目の奥には厳しさや野性味があって、人生の酸いも甘いも知った慈味に富んでいて。
そんな男になった気がしてくる。

勘違いだけど、そういう気分は悪くない。
詰まったCDがプリンスだったら。レッド・ツェッペリンだったら。
おそらくそういう気分にはならないだろう。
或いはスミスやザ・キュアーだったら。
或いはジェームス・ブラウンやファンカデリックだったら。
そういう音楽をいつも浴びていると、きっと(個人的にはともかく)社会生活的には不適合な人格が立ち上がってしまいそうだもの。

音楽は精神に少なからずの影響を与える。
とりあえずはボブ・シーガーでよかったんだろう、と、とりあえず自分を納得させながら、この週末もまたボブの歌をお供にハンドルを握るのだろう。
嗚呼、“Still The Same”。









音のパレット〈鉛色〉

低気圧が張りだしてお天気は斜め模様。
分厚い雲が地の果てまでも続いている。
気圧は低く、湿気は高く、どんよりとした重たい空気で気分も澱みそう。
近づいてくる暴風雨の予感。
そんなどんよりとくぐもった空のことを「鉛色の空」と呼んだりする。

鉛色といえば、僕がイメージするのはレッド・ツェッペリンだ。
赤銅色に錆びて朽ち果てた巨大戦艦が、鉛色に荒れ狂った海を漂流している。
鉛色に重くのしかかる不穏さ。
預言者の不吉な言葉に誰もが呑み込まれていく。


Led Zeppelin / Led Zeppelin

レッド・ツェッペリンのLedはそもそもはLead=鉛、の意味。
リードとの誤読を恐れてLedにしたのだそうで、ヒントになったのはザ・フーのキース・ムーンの口癖“go down like a lead balloon”だったのだとか。go down like a lead balloonとは「ポシャる」というようなニュアンスの慣用句で「巨大飛行船」というイメージよりも先に「鉛」という言葉が彼らのサウンドのキーワードになっていたというのは興味深い。

鉛は古くは「あおがね」ともいわれ、軟らかくて加工しやすいことから古代より使用されてきたそうだ。
金が「こがね」、銀が「しろがね」、銅が「あかがね」、鉄が「くろがね」、そして鉛が「あおがね」。
鉛色は青みがかったグレー。
確かに鉛のイメージ通り、鈍重だけど、どことなくフレキシブルな雰囲気がする。
黄金や銀より遥かに鈍く、鋼鉄のように硬くはないが、どこか狂暴な毒を秘めていそうな色。
そのイメージもレッド・ツェッペリンと一致する。

ツェッペリンの音楽は、崇高で完璧に構築されているように見えて、けっこう思いつきのリフだけでできあがったようなルーズな曲があったりわりとアバウトなところがあったりする。
元々ブルースから影響を受けたバンドだからそれは当然なんだけど、それが楽曲として構築されていく過程でどこか崇高なまでの独特の孤高さが生まれてくる。鋼鉄のような頑丈さと精密機械のような繊細さが違和感なく同居するのがこの四人のマジックなのだと思う。
金属なのにどろりと溶けては異質なものと混ざりあって姿を変えていく不可解さと大胆さ、容赦のなさ。
そしてその感じは、鉛のように不遜だ。



鉛色はすべてを呑み込む。
鉛色はすべてを台無しにする。
鉛色の森、鉛色のりんご、鉛色のうさぎ、鉛色の表情、、、
色合いを鉛色に変えるだけで、黒よりも、灰色よりもその無慈悲感が強烈な気がするのは何故だろう。






音のパレット〈紫〉

紫という色は一筋縄ではいかない色だ。
特にすみれ色や藤色ではなく、いわゆるパープルには、古くから官位の高い人の色とされたように高貴なイメージがある一方で、セクシャルというか妖艶というか淫靡というか、少しアブノーマルな印象も強い。
魔術的、神秘的な印象もあるけれど、そのことが安らぎにつながるかといえば、むしろ不安をあおるような感じがしたりする。
未知のものへの強い興味を誘惑する色。
少なくとも、安定した日常とはかけ離れている。

そういうパープルのイメージのキャラクターを体現している人といえば、やはりこの人しかいないだろう。

プリンス。

ベタベタですが。。。


1999 / Prince

プリンスを初めて聴いたのは『パープル・レイン』だった。
MTVでへヴィーローテーションだった“When Doves Cry”のエグさに戸惑いながらも、怖いもの見たさでつい惹きこまれてしまうような独特の磁力があった。心の奥底を掻き乱されるような独特の求心力があった。
爬虫類的というか、ヌメヌメした肌触りで絡み付かれるような感じ。子ネズミのような自分は睨まれて身動きができなくなる。
生き物には強い違和感や生命の危機を感じたときにアドレナリンが出るような仕組みがあるせいだろうか、どこか気持ち悪さを感じながらも、それがやがて不思議な快感に変わっていくのだ。

気持ち悪さが美しい「Parade」、60年代ロックっぽいかっこよさの「Around The World In A Day」もたまーに聴きたくなるけれど、一番インパクトがあるのはやっぱり「1999」か。



表と裏がメビウスの輪のようにつながってこんがらかってとぐろを巻いているようにうねうねと続く奇妙なファンク感。
エグいくらいの奇声や喘ぎ声。
延々と続く無機質なデジタルビート。
その向こう側に突然後光が射してくる。
ゴミ箱に咲いた紫の花のように、モノクロームの世界の中で鮮やかに存在感を示す紫のその魅力に気づいてしまうと、その風景はそのまま心の底に根付いてしまう。

一番俗なものが実は一番聖らかであるというパラドックス。
一番異端に見える人が実はものすごく正統派である、そのねじれ感。
パープルという色にある聖と俗。

安らぎや癒しはなくても、ときには不安と向き合ってちゃんと覗きこんでみることも必要なのかもしれない。
紫という色の妖しさや毒々しさの向こう側にある強さやしたたかさを、時には取り入れてみてもいいのかもしれない。









牛乳ハラスメント

「○○君が全部飲み終わるまで、授業は始めませんよ。」

その女教師は、そう言って僕の前に仁王立ちになった。

「ほら、もう少し。がんばって。」

「う、ぐ、ぐ、、臭いが、、」

「△△くん、○○くんの鼻をつまんであげて。」

「はーい。」

「ほら、もう少しよ。あと一息。」

・・・ぐ、ぐ、ぐ

なんとか全部飲み切った。

「ほら、飲めたじゃない。
がんばればできるのよ。」

そう女教師が言い終わる前に、僕は無理矢理胃の中へ押し込んだ牛乳を、すべてぶちまけた。

げぇ、げぇ、げぇ

キャー、汚ったなーい

教室は阿鼻叫喚の地獄絵図。




二時間目が終わったあとの牛乳給食の時間が大っ嫌いだった。

牛乳が大の苦手で、いつも飲めずに残していた。
女教師はそのことが、教育的に問題だと思ったらしい。

「○○君、好き嫌いはいけません。」

「牛乳は栄養があるのよ。」

「牛乳を飲めないから、○○君は体が小さいままなのよ。たくさん牛乳を飲んで大きくならなくっちゃ。」

「みんな飲んでいるのに、あなただけ飲まないなんていうワガママは許しません。」


今ならはっきりと言える。

あれは、明らかなハラスメントだ。

クラスメイトの前での強制的指導。
身体的特徴を関連づけること。
ワガママとの決めつけ。


そもそもあの当時の牛乳の不味さといったら。

洗っていない靴下のような瓶の臭いと、水増しして旨みなんてどこにもない、牛乳という名前をした、牛乳みたいな何か。

あれを飲めるほうがどうかしてる。
あれを飲めなかった自分の感性は間違いではなかった。
だって、今の普通においしい牛乳はゴクゴク飲めるのだから。





45年ぶりに思い出して、めちゃくちゃ腹が立ってきたのだけど、残念ながら現代の常識で過去を裁くことはできない。

ケープタウン大学やオックスフォード大学でセシル・ローズの銅像を「人種差別主義者」だったとして撤去するとか、アメリカ南部州で南北戦争の英雄リー将軍の銅像を撤去するとか。或いは韓国が軍艦島の世界文化遺産指定に対して「植民地主義の強制労働の象徴」として指定の取り消しを求めているとか。
憎むべき過去への恩讐。
その発想や行動にある気持ちはよくわかる。
今の痛みの原因は過去にある。
その過去をまるごと否定したい。
あの女教師をパワーハラスメントで訴えることができるのならそうしてみたい気もする。あなたのせいで人格が歪みました、その後の人生に大きな影を落としました、と。
でも、そうすることがいかに不毛か。
被害にあったと騒いでいる後ろから、オレもオマエのハラスメントにあったんだと訴えられないとも限らないわけで。
その当時は良い悪いは別にして、それが普通だったんだ。

今できることは、それらの過ちを理解して、今後は許されない、同じようなことはこれからはしない、させない、ということしかないのではないかと思う。

ちょっとスッキリはしないけど、スッキリするものが正しいわけではない。

正しいからといって正義を振りかざせばいいというものではない。

むしろ大切なのは、痛みの共有のようなものではないか、と思うのだけど。







これから泳ぎにいきませんか


これから泳ぎにいきませんか / 穂村弘

>知り合いの青年に「本は読まないの?」と尋ねたら「ほむらさんはダンスしないんですか?」と聞き返されたことがあります。読書は人生の必修科目でダンスは選択科目、というのはもう古い感覚らしい。

まえがきにあるこのエピソードに、はっとさせられる。

人の価値観は、あまりにも様々だ。
ダンスをしない人間は当然、ダンスの素晴らしさを知らない。ダンスをしない僕が、ダンスなんて馬鹿馬鹿しい、と言及することはできないのだ。
だからといって、無理にダンスをしたいとは思わないし、ダンスが素晴らしいからと押し付けられるのもごめんだ。
読書をすることはなんとなく善いこととされているけれど、それは読書をする側の一方的な思い込みにすぎないし、善いものだと誰かに強制できるものでもない。

穂村さんは、この青年からの問いかけに、こう考える。

>楽器やスポーツのように読書は、趣味の範疇なのか?
読書は言葉と大きく関わっている。
他者とのコミニュケーションだけではなく、人間は言葉を通じて世界を認識している。
心の中で無意識に言葉を使っているように、人間は言葉の介在なしに生きることはできないんじゃないか、そういう意味で読書には特別な意味がある、と思いたい。


あぁ、そうそう。
そうだと思う。

しかし。
本当にそうなのか?

ダンスという表現による身体性、それはひょっとしたら「言葉」よりも「音楽」よりも先に人類が獲得した表現方法で、現代人はそのことをあまりにもないがしろにしているのかもしれない。
言葉は取り繕える。けど、身体性を伴う表現では取り繕ったものはすぐにバレる。
対面して相手の表情を見て指示を受けるのと、メールの文面だけで指示を受けるのでは、理解度合いはまるで違うことってある。表面上は同じでも、その指示に含まれる真意までは、メールではなかなか読み取れない。
これはコロナの渦中でも経験したばかりだ。
すれ違いが続いた恋人や親友でも、会って相手の表情を見ればすぐに誤解が解けたりもする。
そういう意味でも、言葉に変換して考えるのではなく、もっと直感を大事にすべきなんじゃないのか、と。

・・・なんてことを思いつつも、僕も読書を通じて得た言葉に頼って自分を構築し表現してきたタイプ。
穂村さんの意見に本当は共感しているのだ。
でもどうなんだ、ああなんだ、ということをやはりいちいち言葉を使って考えている。
わざわざ言葉に変換しないと理解納得しない、というのはとても厄介だ。
でも、そういうものなのだ。
少なくとも自分はそうなのだから、あきらめてそういう世界で過ごしていくしかない。

・・・ということも、言葉で考えて理解納得しようとしている(笑)。



ちなみにこの本は、歌人の穂村弘さんによる書評集。
世代が近いせい、また、クラスの端っこでグズグズな少年時代を過ごしたであろう生い立ちのせいか、不思議に親近感を覚える人だ。
歌人になったのは、俵万智さんの「サラダ記念日」を読んで、これなら自分にもできそう、と思ったからだそう。
その動機の安っぽさが、ブルーハーツを聴いてバンドを始めた少年みたいでいいな。
この本には、まるで知らない歌人の句集なんかも紹介されているけれど、吟味された言葉がとても瑞々しくて心地よかったりするのです。

本当はこうやってうだうだと文章を書かずに、短歌のように五七五七七の中でスパンと、或いはじわっと、もやっと、気持ちを伝えることができればいいのに、と、そういうときに思っちゃうんだけど、こうしてうだうだと長文を書くのが自分にはよく合っているのだと思うことにしておく。





音のパレット〈碧〉

日本語で「青」と呼ぶ色の範囲は実はとても広い。
どうやら古来、青という色は、赤や黄、白や黒以外のすべての色、灰色~青~緑に至る幅で使われていたらしい。
「青葉」「青虫」「青田」「青信号」、実際は緑色なのにそれを「青」と呼ぶことに誰も何の違和感もないのは、そのことがあながち不自然ではないからだろう。

エメラルドグリーンや若竹色、ターコイズブルーや浅葱色など、青と緑の中間のような色は、とても好きな色。
この「青」は「碧」と書いたほうがしっくりくる。
爽やかな青色の初夏が過ぎて、湿気が上がり雨や曇りが増える今の季節は、青よりも碧が似合う。

さて、そんな碧のイメージのレコードはアズテック・カメラの“Knife”。


Knife / Aztec Camera

メロディーは流れるように美しく、とびきりにポップで、16ビートのギターのカッティングやパーカッションなんかもかっこよく鳴っている。
だけど、元気いっぱいかっていうとそうでもなく、声質は細く、ギターの音色もどこか湿り気と翳りがあって、ロディー・フレームの繊細でナーヴァスな素顔がところどころで見え隠れしている。
少し控えめでうつむき加減でどちらかといえばぺシミスティック。
でも明るさやきらめきは失わない。
群れることも厭いはしないけれど、ひとりでいることの愉しみも知っている。
そんな感じ。



アルバムで一番好きなのはこの曲。

BackwardsとForwards。
過去と未來。
前向きと後ろ向き。
ゆるやかな後悔とささやかな希望。
そんな双方に引き裂かれたアンビバレンツな心を、時には少し揺らぎつつも、なんとなく飄々とやりすごす。
碧のイメージにある、そんな感じは、悪くないと思う。

真っ赤に燃え上がるばかりじゃすぐに燃え尽きちゃう。
いつもいつもクールで冷静な青色でもいられない。
揺らぐのは普通のことなんだ、って、碧い色が微笑んでくれているような気がする。








音のパレット〈蒼〉

ルースターズの音楽は蒼い音という印象が強い。
「青」ではなく「蒼」。
グレーがかったブルー。

ガンガンと煽りたてる音ではなく、じわじわと熱くなっていく音。
熱いハートと同時に、どこか心の奥底が芯まで醒めている音。

特に、下山淳と安藤広一が加入した“DIS.”以降大江慎也脱退までの“Good Dreams”、“Φ”は、くすんだ蒼の感じ。
或いはそこに少し透明感の入ったクリスタルブルーだ。


DIS./ The Roosters

安藤広一のガラスを奏でるようなキラキラとした音や、下山淳のシュールでアブストラクトなブルース臭のしない音は、現実離れしてどこか異世界から聞こえてくる音のような感じがする。
水の底の世界や宙の彼方の世界で鳴っているような。

そしてなんといってもこの時期の大江慎也の歌だ。
ぶっきらぼうで突き放したように投げやりな歌い方。
その硬質さと不思議な浮遊感。
焦点の合わない目で虚空をさ迷うような、何もつかめないまま手を伸ばし続けるような、そんな虚ろさ。
虚ろさの奥にある、マグマが冷えて固まってしまった硬い心の鉱物のようなもの。
その鉱物が、蒼い炎をあげてゆらゆらと燃えている。



蒼い炎って、実は赤い炎よりも高い温度で燃えているんだってね。
木や紙などの有機物が燃えるときに赤い炎が出るのは、不純物が混ざっているからだそうだ。
純粋で高温で燃える蒼い炎。
ゆらゆらと魂のように燃えている。








音のパレット〈青〉

一番好きな色は、青なのです。
青にもいろいろと幅はあるけれど、ちょっと暗めの青色が好き。
瑠璃色~群青~インディゴブルー、いや、それよりは少し明るさがあったほうがいい。
美しく言うと、夜明け前の空の色が理想的だ。

青色というのは、分類としては寒色で、つまりはクールな色とされている。
冷静沈着で、ふざけたりはしゃいだりはあまりしないイメージがある。
また、憂鬱な気分を英語でブルーと表現するように、どちらかといえばシリアスな色でもある。ただ、憂鬱は絶望とは違うように、重々しくはなく、どこかに爽やかさや軽やかさを残している。
好きな色=自分像ということでもないけれど、そういうイメージへの憧れはあるんだろうね。
現実はおしゃべりで理屈っぽいくせにけっこういい加減だとしても、だ(笑)。

冷静で思慮深く、けれどどこかに熱い情熱を抱え持っている。
基本的にはペシミスト。だけど絶望的ではない。
そんな青の音楽のイメージは、このレコードだ。


Late For The Sky / Jackson Browne

言葉は全部言い尽くした
だけどなんだろう、
このまだしっくりしない感じは
僕たちは夜通し続けたんだ
最初から僕たちの足跡をなぞって
それが空気に溶けて消えていくまで
人生は僕たちをどこへ導いていくのか
なんとか理解しようとしてみたんだ
(Late for the sky)




なんていうんだろう、この切ない感じ。
悲しみとあきらめが混ざりつつ、どこか明るさを保とうと手を伸ばしている。
この感じは、ブルーだと思う。

ジャクソン・ブラウンの音楽は、基本的にはクールで理知的だけど、満たされない心と熱い情熱を内側に抱え持っている。
例えば、このアルバムで一番のアッパー・チューン“The Road and The Sky”はこんな歌。

道と空がぶつかる場所にたどり着いたら
エッジを軋ませて魂を滑らせるんだ
奴らは「どうせ生活のためには働かなきゃいけなくなる」ってお説教したけど
僕がやりたいことはただ走ること
ここからどこへたどり着こうと
もはやそんなことは気にしない
さぁ、心を決めるんだ




歌詞だけを取り出すと、威勢のいい若造の突っ走り宣言ソングだけど、ジャクソンの歌のニュアンスには、エゴまるだしで突っ走っていくというよりは、どこか一歩引いた冷静な視点がある。観察者的というか、ジャーナリスティックというか、そういう感じの客観視点が含まれる。
そして、熱く歌いギターを鳴らしながらも、どこか癒されない苦悩や悲しみに浸されている。

僕が思う青のイメージは、こういう相反するものを内側に持っている感覚なんだろうな。
熱くなってひとつの方向へ突進していくのではなく、それでいいのか?だいじょうぶか?と自問自答しながら、時には流されたり思いと逆のことをしたりしながら、ひとつずつステージがすすんでいく。
どこかを目指してがんばっていくというよりは、たどり着いた先で悪戦苦闘していく、その肚はもう決めているんだ、という感じ。

カタルシスや解放感などもはや求めない。
哀しみや苦しみも抱えながら、それさえも受け止めて、少しでもより良い方向へすすんでいこうとする。
闇の中に横たわる希望、少しずつ良くなっていく予感のような明け方の空の色。
青色にあるそういう感じが好きなのだと思う。







Appendix

Profile

golden blue

Author:golden blue
“日々の糧と回心の契機”のタイトルは、好きな作家の一人である池澤夏樹氏が、自身と本との関わりを語った著書『海図と航海日誌』の一節より。
“日々の糧”とは、なければ飢えてしまう精神の食糧とでもいうべきもの。“回心”とは、善なる方向へ心を向ける、とでもいうような意味。
自分にとって“日々の糧”であり“回心の契機”となった音楽を中心に、日々の雑多な気持ちを綴っていきたいと思います。

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